被爆者数と原爆死没者名簿

メモ

広島原爆の死者増を肯定する人は阪神大震災の死者増も考えるべきかも - 愛・蔵太の気になるメモ(homines id quod volunt credunt)
コメント欄での議論が、かなり長くなったので、こちらにバックアップ。
議論そのものは、引き続き、向こうで行っています。

コメント欄

id:motidukisigeru 2009/06/06 09:58
>たとえば、当時の原爆による放射線リスクで現在ガンになって死んだ、というケースを否定するのは難しいけど、リスクに関して言えば別の要因でガンになる可能性のほうが高いと思う。


原爆による放射線を浴びた人は、健康を回復したあとでも、通常よりもガンになる可能性が高いことが分かっています。

http://www.rerf.or.jp/general/qa/index.html


>原爆投下後数年はともかく、数十年というのはどうなんだろうな。
こちらを参照のこと。
http://www.rerf.or.jp/general/qa/qa4.html


さて、「別の要因で癌になる可能性が高い」とは言えるでしょう。あるいは放射能を浴びなくても癌になった可能性がある、と。しかし、可能性は、本来、母数および期待値とセットです。


過剰リスクの推定を単純化して、仮に被爆者が80歳までに晩発性でガンで亡くなる可能性が10%あるとします。
この時、80歳で死亡した100人の被爆者のうち、90人がガンで死亡したとします。
統計的に換算するのであれば、90人のうち81人が、非放射線、9人が放射線由来と考えることができます。


これについて90人が原爆の影響と見積もるのは多すぎだ、と、いうのは、理論上は、その通りです。
一方、これを0人と見積もるのも間違いです。確率・統計的には、9人は原爆の被害者であることが保証されます。


さて、被爆者については名簿で管理されています。
この時、上記90人の名前について、「いやいや君らは、原爆による死亡確率10%だから、全員は載せられないよ」というのは、現実的でしょうか?
サイコロふって、81人を除外して、9名だけ載せる?
あるいは、「この90名は、9名分と数えます」とか追記する?


愛・蔵田さんがおっしゃってるのは、そのような要求です。


例えば、これが放射線の長期影響についての、調査論文であれば、この名簿の数字をそのまま採用することはできないでしょうが、問題は、これは、論文ではないということです。
もし愛・蔵田さんが、「統計的に厳密な原爆由来の本当の死者推定数」を知りたいのであれば、そのような研究を探せば良いのではないでしょうか。



id:lovelovedog 2009/06/08 03:03
ていねいな説明、どうもありがとうございます。しかし私のハンドルは愛・蔵太なのです。今後ともよろしくお願いします。

id:motidukisigeru 2009/06/08 03:50
大変失礼しました<ハンドル
記事内容についての指摘に関しては異論がないということでよろしいでしょうか?

id:lovelovedog 2009/06/08 04:02
リンク先のテキストをていねいに読んでみてからまた何か言うかもしれません。しかしヒバクシャ差別というのにも、あれこれ見ていて興味を持ったのでした

id:motidukisigeru 2009/06/08 04:41
仮にリンク先のテキストが十分信頼できるものであるとした場合、愛・蔵太さんの言い様は、大変無神経で、他者を傷つけるものではないかと思います。それについては、ご同意いただけますか?


もちろん、リンク先テキストの内容から、さらに踏み込んで調査した場合、違う結論が出るかもしれませんが、問題は「最終的、結果的に最初の主張が当たっているかどうか」ではなく、「事実関係を調べずに放言した」という点です。


大勢の人間を傷つけるような発言については、最低限「もう少し調べて」書くべきだったのではないか、という点についてご同意いただければと思うのです。



id:motidukisigeru 2009/06/08 05:05
上記のリンクの妥当性云々とは別に、お聞きしたいことがあります。
「原爆死没者名簿」の人数と、学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定は、目的が違うが故に、一致する必要もない、という点は同意いただけますか?
同意いただける場合、前者に後者の基準を押しつけるのは、間違っているという点についてはいかがですか?


>しかしヒバクシャ差別というのにも、あれこれ見ていて興味を持ったのでした
深く考えずに「数字が増えるのはおかしい」とか「この数は多すぎだろう」とか放言する人が差別の一端を担っていると考えます。


素朴な疑問のとっかかりとして、そう思いつくのは良いとして、自分にとっての素朴な疑問が当事者にとっては「素朴な疑問」どころではすまないことを意識しようとしない立場の違いこそが差別の温床でしょう。


愛・蔵太さんは、原爆死没者名簿に載っている方に対して、「おまえら本当に原爆で死んだの?」と言ったに等しいわけです。
そのような相手の状況への無関心、無視と、カジュアルな存在の否定は、大変な暴力となります。


被爆者数について語るな批判するな、という話ではなく、自分の発言に責任を感じるのであれば、最低限「もう少し調べて」から、考えてから書いたほうが良いのではないか、ということです。



バグってハニー 2009/06/09 01:58
そもそもの発端は前エントリで紹介されていた「教えて!Goo」のやり取りでしょ。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2268554.html
『原爆の死亡者数』を訊かれて『公式に発表になっている、「原爆死没者名簿」の掲載数で良いのではないでしょうか。現在、広島は242437人、長崎は 137339人です。』と答える人が世の中には実際にいるわけですよ。『「原爆死没者名簿」の人数と、学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定は、目的が違うが故に、一致する必要もない』にも関わらず。それは、ひとえに「原爆死没者」という言葉からイメージされるものとその実態がかけ離れているからではないでしょうか。私が調べた限り、「原爆死没者名簿」は学術的調査によって定義されるようなものではなくて、記念碑的、政治的な意味合いしかないです。


「原爆死没者名簿」というのは聞いたことはありましたけど、実際に調べてみるまでそれが実際に何を意味しているのか私知らなくて、漠然とこのGooの回答者と同じようなことを想像していたわけですよ。それで、実際に調べてみてその意味が分かってみると、ちょうど蔵太さんと同じ感想を持ちました。『東京大空襲死没者数』ってあったら、すごい数字になりそうだって。蔵太さんによる一連のエントリは「原爆死没者名簿」が実際に何を意味しているのか気付かせるという点で有意義であったと私は思います。



id:motidukisigeru 2009/06/09 07:23
>バグってハニーさん
>『原爆の死亡者数』を訊かれて『公式に発表になっている、「原爆死没者名簿」の掲載数で良いのではないでしょうか。現在、広島は242437人、長崎は137339人です。』と答える人が世の中には実際にいるわけですよ。


聞いた人も応えた人も、あまり深く考えてはないでしょうが、それも一個の答えであり、目安ではあるでしょう。
記念碑、あるいは、広島市長崎市が、被害者を援護するための努力の一貫としての数字であることは、もちろん賛成です。


>それは、ひとえに「原爆死没者」という言葉からイメージされるものとその実態がかけ離れているからではないでしょうか。
>それで、実際に調べてみてその意味が分かってみると、ちょうど蔵太さんと同じ感想を持ちました。


お気持ちはわかります。「素朴な疑問」というやつです。
問題は「素朴な疑問」の表明が、他人を傷つける可能性がある時は、「もう少し調べて」あるいは考えてから書けばよかったのではないかという話です。


>蔵太さんによる一連のエントリは「原爆死没者名簿」が実際に何を意味しているのか気付かせるという点で有意義であったと私は思います。


はい、そのような一面もあるでしょう。
同時に、無神経で、不特定多数を傷つけるエントリであったとも思います。
それらは相殺されないかと。



id:lovelovedog 2009/06/10 00:41
繰り返しになりますが、リンク先のテキストをていねいに読んでみてからまた何か言うかもしれません。「無神経で、不特定多数を傷つけるエントリであったとも思う」という、motidukisigeruさんの感想はわかりました

id:motidukisigeru 2009/06/10 01:13
なるほど。繰り返しになりますが、
「原爆死没者名簿」の人数と、学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定は、目的が違うが故に、一致する必要もない、という点は同意いただけますか?

バグってハニー 2009/06/10 05:39
>「原爆死没者名簿」の人数と、学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定は、目的が違うが故に、一致する必要もない


なんだったら


>聞いた人も応えた人も、あまり深く考えてはないでしょうが、それも一個の答えであり、目安ではあるでしょう。


とは、ならんでしょう。「原爆死没者」には原爆によらない死者が明らかに多数含まれているわけですから。例えて言えば「タバコの害による死者は何人か?」と問われて喫煙人口を答えるようなもんです。原爆による死者数の上限値だとか強弁はできるとは思いますが、原爆による死者を推定するのにはほとんど役立たないです。「広島の原爆による死者は25万人」というのは単純に言って間違いですし、「原爆死没者」が何を意味しているのか知りつつそう主張するのならそれはデマです。


「原爆死没者」というのは私はそれをカウントする意義を否定するつもりはなんらないですが、名前がミスリーディングだと思います。「死没被爆者」とかの方がいいかなあと。



id:motidukisigeru 2009/06/10 07:57
>バグってハニーさん
>>原爆の死亡者数が詳しくわからないことは知っていますが、どれがレポートなどに書くとき一番適当ですか?


元々の質問は、こうです。このいい加減な質問であれば、「広島市長崎市の発表している人数」としてレポートに書くのも「一個の答えであり、目安」でしょう。


>原爆による死者数の上限値


一応言っておくと、そこまで簡単でもありません。
広島市長崎市は、できるだけ原爆死傷者数全体をカバーしようとするでしょうが、その一方で、原爆の被害にあいながら、様々な理由で、それを申告しない人、申告できない人も沢山いるわけです。
そういう人がいるからこそ、多めに認定しようとしていると言ってもいい。


もちろん、最終的には多いかもしれませんが、断じて上限値などではありません。


>「原爆死没者」というのは私はそれをカウントする意義を否定するつもりはなんらないですが、名前がミスリーディングだと思います。「死没被爆者」とかの方がいいかなあと。


いや同じだと思いますよ? その場合でも、実際の被爆者<死没被爆者数になるでしょうからミスリーディングだと言われうる。


「非学術的被害者認定目的象徴的原爆死没者数」とかすればいいのかもしれませんが、それもどうかと思います。


で、遺族や被害者の方に「原爆死没者数という呼び方はデマだ。変えろ!」というのであれば、一個の主張ではありますが、個人的には無神経だと思います。



みらい 2009/06/10 21:28
死没被爆者だと「死んだ被爆者」と言うニュアンスがでてくるけど
原爆死没者だと「原爆のせいで死んだ人」という感じでしか
受け取られないんじゃないでしょうかね?
勿論それで間違いではないという論が成り立つのは理解できますし
無神経なことをいうべきではないというご意見も納得できるのですが
理論的にはそうでない方が含まれるわけですし
こんなことをいうと泥仕合になってしまいそうな気がするのですが
そもそも「原爆死没者」という呼称に拘るべき意味があるのでしょうか?
「原爆死没者」と呼んでくれといっていた方がいたのでしょうか?

id:motidukisigeru 2009/06/11 00:04
>みらいさん
上記の記事で私が言いたかったことは、「もう少し考えて」「調べたら」どうか、ということです。


原爆死没者数という言葉を巡って、そもそも原爆を巡って、被害者の人や関係者や国やその他について、どのように考えたか。言葉や数値を巡って、どのような経緯があったか。


控えめにいって、多分、すごく沢山色々なことがあったと思います。
本当に色々なことがって、その中には差別や迫害や無理解、それを乗り越えるさまざまな議論や対話もあり、それら全てが重なって現在があるのではないかと。


私が指摘したのは、その中の、ほんのわずかな部分です。これだけ解決すればいい、というのではなくて、「ちょっと考えただけでも、こういうことがある」という話です。


>理論的にはそうでない方が含まれるわけですし
>こんなことをいうと泥仕合になってしまいそうな気がするのですが
>そもそも「原爆死没者」という呼称に拘るべき意味があるのでしょうか?


死没被爆者のほうがわかりやすい、というのは、我々の立場ですよね。それについては賛成します。
ただ、関係者の人には、別の立場、別の考えがあるでしょう。


そこを考えることができるか。調べる姿勢があるか。
大切なのはそこであって、それをしない限りにおいては、言葉を変えたところで「泥試合」になると思いませんか?



バグってハニー 2009/06/11 02:58
>「原爆死没者数という呼び方はデマだ。変えろ!」


私がデマだと呼んだのは「原爆死没者」数を根拠に広島の原爆による死者は25万人だと主張することであって、「原爆死没者」を数えること自体には一貫して意義を認めてきたはずです。また、私は「原爆死没者」という名称は「ミスリーディング」だとは書きましたが、「デマ」だとは書いていません。私の発言を引用する際には正確さ・公平さを期すよう、お願いします。


「原爆死没者名簿」に今年は何名書き加えられた、という報道に接して、「未だに原爆のせいで毎年5,000人以上の人が死んでいる」などと勘違いしている人をネットで見かけるので、やはりこの名称はミスリーディング(誤解を与える)と思います。「原爆死没者」という名称は名簿以外にあちこちで使用されているのでいまさら変更しようはないとは思いますが、仮に最初から「死没被爆者」という名称であったとして、そのせいで傷つく被爆者の方はいないと思います。


>元々の質問は、こうです。このいい加減な質問であれば、「広島市長崎市の発表している人数」としてレポートに書くのも「一個の答えであり、目安」でしょう。


広島市は「原爆死没者」数を「原爆の死亡者数」として発表していません。むしろ、1945年末までの死亡者数として14±1万人と発表しています(前エントリ参照)。「原爆死没者」数は「原爆の死亡者数」として「一番適当」とはとうてい言えません。


>原爆の被害にあいながら、様々な理由で、それを申告しない人、申告できない人も沢山いる


「原爆死没者」は原爆による死者の上限値、と書いた後で、「申告できない人」がたくさんいるということに気付きましたが(後述)、「それを申告しない人」に関しては少し調べて考えてみればほとんど考慮する必要がないことが分かるはずです。まず、今までに判明した「原爆死没者」は約25万人であり、被爆当時の広島市の推定人口34-35万人(放影研FAQ)の大部分をカバーしています。いまだ生存している被爆者も多数いることを考えれば、漏れている人がほとんどないのは直感的に分かるはずです。


具体的には1950年の国勢調査で広島・長崎で被爆したと自己申告した人は約28万人(放影研 FAQ)。そのうち、2007年の時点で生存していた人は約40%とみなせるので(放影研FAQ)、人数としては約11万人となります。広島のほうが長崎よりも被爆者は多いのでこのうち6-7万人が広島の被爆者だとします。2007年当時の「原爆死没者」は25万3,008人です(毎日新聞2008年6月 27日の記事)。


「原爆死没者名簿」に載るのは基本的に死没被爆者のうち氏名が分かっている人だけです。1945年末までの原爆死者が約 14万人と推定されているにもかかわらず、同時点までに死亡したとして「原爆死没者名簿」に登録されているのは8万9,000人にとどまります(読売新聞 2006年8月15日の記事)。すなわち、被爆直後の混乱により氏名が判明しなかった人、記録から漏れた人は約5万人と推定されています。


つまり、死没被爆者、生存被爆者、1945年末までになくなった人で記録がない人を合わせると36-37万人となり、被爆時の広島の推定人口を上回ります。ですから、自分の意思で被爆の被害を申告しない人は無視できるほど少ないと結論できます。死没被爆者と生存被爆者を合わせただけでも当時の推定人口の9割をカバーするので、原爆による死者数が氏名が判明している「原爆死没者」よりも多いということは絶対にないです。


>過剰リスクの推定を単純化して、仮に被爆者が80歳までに晩発性でガンで亡くなる可能性が10%あるとします。
>この時、80歳で死亡した100人の被爆者のうち、90人がガンで死亡したとします。
>統計的に換算するのであれば、90人のうち81人が、非放射線、9人が放射線由来と考えることができます。


80歳で死亡した100人の被爆者のうち大多数が非放射線由来だと認めているんですよね?その上で、「原爆死没者」は原爆による死者数の上限値では断じてない、と主張するのは私には支離滅裂にしか見えないのですが。



id:lovelovedog 2009/06/11 03:18
「学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定」と「原爆死没者名簿」の、それぞれの目的については、どこかに何か書いてありますか。「原爆死没者名簿」については「人類の恒久平和を祈念するため」(http://www.city.hiroshima.jp/www/contents /0000000000000/1242628063120/index.html)ということでいいのでしょうか。なんか「Suspension of Disbelief」に関する肯定、という判断のように思えました

SF-mono 2009/06/11 09:22
 基本的には、ダブルスタンダードな方に何を言っても納得されるとは思えません。
 
>無神経で、不特定多数を傷つけるエントリであったとも思います。


>私が指摘したのは、その中の、ほんのわずかな部分です。これだけ解決すればいい、というのではなくて、「ちょっと考えただけでも、こういうことがある」という話です。


>ただ、関係者の人には、別の立場、別の考えがあるでしょう。



 結局は、当事者でない物は口を出すな。(blogに気に入らないこと書くな)俺も当事者じゃないけれど。(俺はなんでも書くけどね。)
 
 とまとめてみました。【乱暴だけど】
 
 コメント欄で色々な意見を投稿する事は興味深いけど、頭ごなしに"無神経"呼ばわりする事は【罵倒】じゃないかと思う次第です。
   
あとはblog主のlovelovedogさんの判断にお任せするしかないのではと思います。



id:lovelovedog 2009/06/11 09:28
ぼくは、ぼくの知らないことについて教えてくれるようなコメントは基本的に歓迎します。ぼくが何かについて知らない、ということは十分に知っていますので、そのことについてはここを読め(調べろ)みたいなコメントでしょうか(その際の口調は多少、人間なので気にする場合はあります)。繰り返しになりますが、リンク先のテキストをていねいに読んでみてからまた何か言うかもしれません。

id:motidukisigeru 2009/06/11 10:30
>バグってハニーさん
はい、名前が我々から見てミスリーディングであることについては否定していません。
問題は、それについてどう考えるか、という話です。


先のコメントに書いたように、例えば、我々から見てミスリーディングな名前となったのは、なんらかの経緯や様々な人の思いがあったのではないか、という話をしています。


>広島市は「原爆死没者」数を「原爆の死亡者数」として発表していません。
ありがとうございます。であるなら、当初の「教えてgoo」での答えは不適切なものでした。
確かに、そのような誤解が広がる余地はあると思います。


>「原爆死没者」は原爆による死者の上限値、と書いた後で、「申告できない人」がたくさんいるということに気付きましたが(後述)、「それを申告しない人」に関しては少し調べて考えてみればほとんど考慮する必要がないことが分かるはずです。
>ですから、自分の意思で被爆の被害を申告しない人は無視できるほど少ないと結論できます。


上限値という言葉では、その通りです。お詫びの上、訂正します。
バグってハニーさんが、元のコメントで上限値と言われた時、


被爆者名簿の集合⊃被爆者の集合


と考えているように思われていたように見えましたので、そうではない、という指摘です。


>ですから、自分の意思で被爆の被害を申告しない人は無視できるほど少ない


数値の割合的には、その通りですね。
ただ、その人達は、統計上の数字ではなく、人間です。その意味では、無視していい存在ではありません。
そこは賛同いただけますよね。


数値の把握に支障を来しうる、というのは、一つの問題です。
一方で、名称は、様々な原爆被害者の方の人生に直結します。
そう考えると、単純に、数値、用語面の正確さ以外に考える必要があるのではないか、ということですが、お分かりいただけますでしょうか?


>80歳で死亡した100人の被爆者のうち大多数が非放射線由来だと認めているんですよね?その上で、「原爆死没者」は原爆による死者数の上限値では断じてない、と主張するのは私には支離滅裂にしか見えないのですが。


このモデルは、なぜ、被爆者名簿の数が、実際の被爆者より大きいことがありうるか、という説明でしたので、このモデルにおいては、
被爆者名簿の集合⊃被爆者の集合
となりますが、これは言葉が足りず、実際は、そうではない、という話です。



id:motidukisigeru 2009/06/11 10:35
>愛・蔵太さん
> 「原爆死没者名簿」については「人類の恒久平和を祈念するため」(http://www.city.hiroshima.jp/www/contents /0000000000000/1242628063120 /index.html)ということでいいのでしょうか。なんか「Suspension of Disbelief」に関する肯定、という判断のように思えました


おっしゃる意味がわかりません。
「人類の恒久記念平和という大義名分にのっとって訴える」のであるから「数値がいいかげんでも疑っちゃダメ」という判断である、と、思ったということでよろしいでしょうか?



id:lovelovedog 2009/06/12 03:18
意味がわからないのは、お互いの使っている言葉の意味が少し違っているからでしょう。motidukisigeruさんは、「学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定」と「原爆死没者名簿」の、それぞれの目的について、どこかに何か書いてあるテキストを探していただけるとありがたいのです。

バグってハニー 2009/06/12 03:46
被爆を申告しない人は無視できるというのは、もちろん「被爆者総数に対して」という意味です。ご本人とってはとても無視できないような切実な問題であるのは想像に難くないです。いまだに被爆者健康手帳を申請している人がいるようですし。


だんだんと調べるのも疲れてきたのですが、もう、2、3点だけ。


広島市の公式発表である14±1万人ですが、どうやって算定したのか今ではその根拠がはっきりとしないようです。
http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070226.html
http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070313.html
市の推計「約14万人(誤差プラスマイナス1万人)」の根拠について、市国際平和推進部平和推進担当の手島信行課長から回答があった。結局、どういう数が重なったのかは市の資料では分からないらしい。「専門家による委員会に資料作成を任せた」からだという。
(中略)
「広島原爆戦災誌」第3巻を読むと、戸籍簿は疎開させ、焼失を免れたとある。誤差があるのは、原爆で文書が焼けたり、戦後の混乱で書類が無くなったという理由ではなかった。なら、戸籍とその人が原爆で亡くなったかを一人ずつ当たっていけば、実際の犠牲者数に近づけるよね。  


ところが、市などはそれをしていない。それどころか、家族全員が原爆で死亡し、死亡届を出されることがなかった人も含まれるとみられる戸籍を抹消し、その数を記録していない。市内で最近抹消されたのは2003年度の166人。以前の数字について、企画総務局総務課の大東和政仁課長は「抹消した戸籍数が合計で、数百か数万か分からない」という。  
―――


戸籍を履歴も残さずに抹消してしまったせいで一家全滅のケースを把握できなくなったようです。それで、以前紹介した読売新聞2006年8月15日の記事と読み比べて見るとおもしろいのですが


―――
 広島市原爆忌の平和記念式典で毎年奉納する原爆死没者名簿で、原爆投下後の1945年中に亡くなったとされる死没者約14万人のうち5万人以上の名前がいまだに記帳されず、最近5年間の追加記帳もわずか145人分だったことがわかった。投下直後当時の犠牲者の名簿登録は遺族らからの届け出が必要で、市は「一家全滅などのケースもあるが、すでに登録されていると思い込んでいる遺族も多いはず」として、遺族らに確認を呼びかけている。
―――


「お前がゆうな」という感じなのですが、どうも、広島市は犠牲者を確定するためにあまりいい仕事をしていないという印象を持ちました。根拠がはっきりとしない 14万人に無理やり合わせようとしているような気がしなくもないです。ひょっとすると氏名が判明している9万人の方が真実に近いのかも知れないです。


あと、広島市は「原爆被爆者動態調査」というのもやっていて、これによると被爆者総数は54万1,817人にも上るそうです。当然、原爆の後で広島市に入った入市被爆者が含まれているとは思いますが、当時の広島市の人口をはるかに上回る大きな数値です。ソースが辿れなかったので参考記録、ということで。


なんか、調べれば調べるほど不信感に苛まれるという感じです。



id:motidukisigeru 2009/06/12 09:16
>愛・蔵太さん
>motidukisigeruさんは、「学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定」と「原爆死没者名簿」の、それぞれの目的について、どこかに何か書いてあるテキストを探していただけるとありがたいのです。


「学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定」の目的は「学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定」に決まってると思いますが、何についておたずねですか? 具体的な個々の調査についての話ですか?
また原爆死没者名簿は、名簿である時点で、学術調査的な数の推定が目的でないことは自明であると思いますが、そこについて確認する必要がありますか?


では「Suspension of Disbelief」に関する肯定、についてお聞かせください。


>バグってハニーさん
まずそもそも「原爆死没者名簿」の名前の合計数と、学問的な推定値が違うのは当然という話をしてるのであって、それぞれの推定値の違いの話はしてないわけですが、なぜ、その話を持ち出すのでしょうか?
これについてお答えください。


この件については俺も素人であることを強調しておきますが、素人であることを自覚するのなら、調べるべきは、まずネットの拾い読みではなくて史料であり報告であると思いますよ。
その上で、ネットの拾い読みですが、以下をどうぞ。
http://www.takjapan.com/HiroshimaMail040724.htm


広島市の人口」というのは、広島市に戸籍を持つ人であり≠広島に住む人、です。
軍属もいますし、朝鮮半島からの連行者もいます。当時の広島が戦時中であり、工業都市であったことを考えれば、住民票をもたずに広島市に来ている人の数は、現代の常識では計れない可能性があると思います。また「黒い雨」というのもありまして、被爆者は単純に市内だけではありません。


一日で都市部が壊滅し、多くの負傷者が出れば、大きな救護活動が起きるでしょうし、それのボランティア協力者も出るでしょう。親戚や知り合いを助けにゆく人も出るでしょうし、その他、無数の事情で市を出入りする人がでることは想像に難くありません。
当時の広島に、住民票以外でどれくらいの人が来ていたのか、また、原爆の後にどれくらい人が来るのか、は、私は、正直、全く検討がつかないのですが、バグってハニーさんは「54万は多すぎる」と思って不信感を感じているわけですよね。


それは、なぜですか?



ト 2009/06/13 03:15
「原爆死没者名簿」はカッコして(広島長崎原爆の爆発及びその放射能汚染の影響を受けたと思われる、既に直接的原因はともかく死去した人達の政治的歴史的厚生的意味があると思われる名簿)とでもした方が良いんで内科医?
そういえば毒物の分量をさして何百万人分の致死量というのも、いたずらに恐怖心を煽るというか事大した修辞表現だと思うわ。
単純にしても使う側の計算と使われた側の計算は合致しないでしょうし、更に政治と銭が絡みますから。

みらい 2009/06/14 00:24
>学術調査的な数の推定が目的でないことは自明であると思いますが、
何を目的として存在しているのかを尋ねられているのでは?


そして目的が曖昧なまま数字だけが大きくなることに無神経な言い方をさせて
もらえれば胡散臭さを感じます。そう感じるのが私だけならば良いのですが、
そうでないとするならばその様な胡散臭さを放置することが関係者の方や
核廃絶道に有益なことだとは思えません。


あとこんなことを言ってはなんですが「関係者が〜と考えるかも
しれないことを考慮しないのは無神経。」という考え方にたつなら
どのような形であれ話題にして欲しくない関係者もいるかもしれないのだから
id:motidukisigeruさんがこの話題にコメントすること自体
「無神経」な可能性もありますよね?



id:motidukisigeru 2009/06/14 02:23
>みらいさん
>そうでないとするならばその様な胡散臭さを放置することが関係者の方や
>核廃絶道に有益なことだとは思えません。


「胡散臭さ」だけをなんとかしろ、というのは、「臭い物には蓋」であり、一方的な要求となります。
そうではなくて、相手のことをきちんと理解しようとするのであればそれは大切なことだと思います。


ですから、最初、みらいさんがおっしゃったような、呼び方だけの問題に帰するのは、その点で間違いではないでしょうか。
漢字数文字の名称だけで、理解したつもりになるのであれば、それが問題なのです。
漢字数文字の背後に、様々な歴史、背景、人の積み重ねがあって、それを理解する必要がある、というのをわかってもらうのが大切なのではないかと思うのです。


>どのような形であれ話題にして欲しくない関係者もいるかもしれないのだから
>motidukisigeruさんがこの話題にコメントすること自体
>「無神経」な可能性もありますよね?


そうですね。
無神経である可能性を完全に排除しようとするのならば、それは何も言えないことになります。
ですから私は、「書くなというのではなく、もう少し調べて書いたら?」という提言をしています。
具体的には「広島原爆の死者増を肯定する人は阪神大震災の死者増も考えるべきかも」というのは、調べが足らないだろう、という話です。



id:lovelovedog 2009/06/16 02:11
「Suspension of Disbelief」に関するぼくの考えは、「サンタクロース」について以前考えたようなことと同じです(http://d.hatena.ne.jp /lovelovedog/20080128/maoka)。「原爆死没者名簿」が増え続けていて、阪神大震災の死者が増え続けていないのは、前者にちょっと「政治的目的」なものがあるのかなぁ、と思いました(前者は人間の営みと関係ありますが、後者は自然災害なので)。核兵器を使うことに賛成なわけは、もちろんありませんが、「数値がいいかげんでも疑っちゃダメ」とは、一応オトナであるぼくとしては言えません。

id:lovelovedog 2009/06/16 02:12
朝鮮人被爆者数に関して中央日報」が書いたことは、ネットで見られるようならurlを書いておいていただけるとありがたいです(多分ネットで見られないので書かれなかったのだとは思いますが)

id:lovelovedog 2009/06/16 02:12
広島市の公式発表である14±1万人」の根拠について、もう少し知りたくなりました。「市原爆被害対策部の松村司部長は「約14万人(誤差プラスマイナス1万人)は推計に過ぎない」」と言っているのがすごいですね。「被爆者総数」の「54万1,817人」が最終的な「原爆の死者の数」になりそうな予感です。

id:lovelovedog 2009/06/16 02:13
学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定」と「原爆死没者名簿」の、それぞれの目的とは、どういう政治的立ち位置にある人間・組織が、どういうことを世の中の「常識」として扱いたがっているか(どうしてそう数字が食い違っているか)、ということが知りたいのでした。

id:lovelovedog 2009/06/16 02:13
「原爆死没者名簿」という言い方は定着しているので、言い換えは難しいでしょうね。

id:lovelovedog 2009/06/16 02:13
「ぼくの日記そのものが無神経で不快」だとする人間も想定できるのですが、そうすると何も書けなくなってしまうのです。何かを書いている人の業と申しますか。

id:lovelovedog 2009/06/16 02:14
id:motidukisigeruさんは、阪神大震災の死者が増え続けていないことに関してどう思いますか。孤独死、なんてのはある種政治的な問題のような気もしたりしたのでした。

id:motidukisigeru 2009/06/16 03:13
愛蔵太さん
>「数値がいいかげんでも疑っちゃダメ」とは、一応オトナであるぼくとしては言えません。


もちろん疑って良いと思います。そして、疑うもなにも、数値が学術的な意味で正確でないことは、最初から私も反対していません。何を主張されたいのですか?


> 学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定」と「原爆死没者名簿」の、それぞれの目的とは、どういう政治的立ち位置にある人間・組織が、どういうことを世の中の「常識」として扱いたがっているか(どうしてそう数字が食い違っているか)、ということが知りたいのでした。


「私はこういう政治的立場から、これを常識として扱うように圧力をかける」と申告する人もいないでしょうから、それを引用することは難しいでしょうね。
同じ条件を目指していて「数字が食い違う」場合ならともかく、条件や定義が違うのであれば数字が違うことも当然です。それは公平な立場であっても違いますし、最初から、そこに「政治的立ち位置」やら「常識として扱いたがっている」等という視点を持ち出さなくても良いでしょう。


>「ぼくの日記そのものが無神経で不快」だとする人間も想定できるのですが、そうすると何も書けなくなってしまうのです。何かを書いている人の業と申しますか。


そうですね。
逆の話「何を書いたって無神経という人はいるかもしれないから、誰が無神経で不快と思おうと、俺は何でも書く」というのであれば、それはそれで我が侭です。
ですから、具体例をあげて、ここはこのように無神経ではないか、もう少し調べるべきではなかったか、という話をしています。
こちらが言っていない極端な仮定を持ち出して、お話をそらしてるように見えますが、どうでしょうか?


>motidukisigeruさんは、阪神大震災の死者が増え続けていないことに関してどう思いますか。孤独死、なんてのはある種政治的な問題のような気もしたりしたのでした。


阪神大震災の影響で、後になって死なれた方については、死者数に含めて良いと思います。


http://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/00046903sg300601170900.shtml
阪神・淡路では、災害後の体調の悪化などによる「関連死」が初めて死者に含まれ、犠牲者の14%を占めた。」


こちらを見る限り、増えているようですし、それが正しいと俺も思います。
どこまで含めるか、というのを細かく言ってゆけば、それは、もちろん政治的な問題にならざるをえないでしょうね。
また、そこにおいて、被爆の影響は本当に長く続く、という点も見落としてはいけないかと。



バグってハニー 2009/06/16 05:16
Motidukiさん


>素人であることを自覚するのなら、調べるべきは、まずネットの拾い読みではなくて史料であり報告であると思いますよ。


それはこっちのせりふだw
新聞報道を引用しているのはもっぱらわたしで、個人的な感想を書き連ねているのはもっぱらMotidukiさんのほうじゃないですか。こんなこと書いといて


>ネットの拾い読みですが、以下をどうぞ。


って、なんかのギャグですかw
「原爆被爆者動態調査」について私が示唆したのは同じページです。ソースが辿れなかったので参考記録、というのはMotidukiさんがいう、「ネットの拾い読み」と同じ意味です。根拠があやふやなことに関して「俺はこう思う」「いや、俺はこうだと思う」というのが一番不毛なんで、「原爆被爆者動態調査」に関してこれ以上議論するつもりはないですが、このページで挙げられている数値は怪しさ満点だと思ってます。数値は一の位までありますからね。つまりこれに含まれている被害者・犠牲者は個人として特定されているということです。そして、それは常識的に考えて無理でしょう。ただまあ、このページを書いた人が数値を正しく引用しているかどうかさえ確かめようがないんで...。


>「広島市の人口」


広島市(当時)の推定人口34-35万人というのは放影研FAQに原爆で亡くなった人の母数として挙げられていたものです。なんて書いてあるかというと


>軍関係者数に関する記録は焼失し、家族全員が亡くなった場合には死亡を報告できる人がいない、徴用された人の数が不明などの理由で、正確な人数は明らかではありません。


つまり、この数値には広島市に住民として登録されていた人以外に軍人、徴用された朝鮮人、といった記録が残っていない流動的な人口も含まれています。広島市に住民として登録されていたのは28万人とどこかで読んだ覚えがあります。つまり、その差がMotidukiさんが言ってるような人たちですね。


いわゆる「入市被爆者」に関してはどこにも数値は見つかりませんでした。例外はNHKの番組案内で、誰がどうやって算定したのか示さずに、ただ単に11万人という数値が紹介されています。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/080806_2.html
一つだけ分かったのはこれは新しい言葉だということです。新聞記事に登場するようになったのは2002年からです。


広島市外で黒い雨に当たった人数もよくわかんなかったです。


>不信感


私が持つ不信感はもっぱら広島市に対するものです。戸籍を勝手に抹消したり、外部専門家に委託した報告書がどうやら残っていないらしいなどの点から不信感を抱きました。誰でも似たような思いは持つとは思うのですが...。


>まずそもそも「原爆死没者名簿」の名前の合計数と、学問的な推定値が違うのは当然という話をしてるのであって、それぞれの推定値の違いの話はしてないわけですが、なぜ、その話を持ち出すのでしょうか?


「原爆死没者名簿」の名前の合計数と学問的な推定値の違いの話をしているのは私ではなくて広島市です。原爆推定死者数の約14万人と名簿登録数の約9万人との差、約5万人を埋めようと呼びかけているのは広島市です。もう一度、私の引用した読売新聞の記事を読んでみてください。ただ、同じ事柄に関して二つの数値が挙げられていたら、どうして差が生じるのか、どうすれば差が埋まるのか考えようとするのは自然な人情だとは思いますが。



蔵太さん
>「朝鮮人被爆者数に関して中央日報」が書いたこと


はネットでは見れんです。あしからず。私はFactivaという記事データベースを使ってます。大学とか図書館とかアカウントがあるところからじゃないと検索できません。全文コピペしろと言われればできますけど(やや気は引けますが)。それとかメールで送るとか。朝鮮人被爆者数は新聞・記事によって数値はまちまちです。一番少ないのは2万人(毎日のとある記事)、一番多いのは中央日報の10万人。一番多くみかけたのは7万人でした(広島5万人+長崎2万人)。朝鮮新報でさえ7万人なのに中央日報って...。



id:motidukisigeru 2009/06/16 09:48
>バグってハニーさん
>http://www.chugoku-np.co.jp/hiroshima-koku/exploration/index_20070313.html


この「抹消された戸籍」ですが、正直よくわかりません。


まず死亡者などの戸籍は抹消されたといいますが、この場合は、戸籍に死亡が明記されるだけで、書類としての戸籍が廃棄されるわけではない。
次に、戸籍に属する全員が消除された場合、戸籍は除籍簿に移されます。この時、除籍簿は80年保管されます。
80年より早く廃棄されてる例もあるようですが、昭和45年の除籍簿が廃棄されている、という例はざっと調べた範囲では見当たりませんでした。除籍簿は遺産相続の際に必要なものであり、特に理由無く近年の(45年以降の)除籍簿を廃棄するのは大きな問題になります。


記者の言っている「戸籍の抹消」についてですが、単に除籍簿に移されただけ、という可能性もあります。


広島市の「戸籍の抹消」もしくは除籍簿の廃棄について、追加情報があれば有り難いです。



id:motidukisigeru 2009/06/16 10:07
>バグってハニーさん
>新聞報道を引用しているのはもっぱらわたしで、個人的な感想を書き連ねているのはもっぱらMotidukiさんのほうじゃないですか。


そうですね。私は、単に「学術調査」と「名簿の数字」は一致しないよね、という常識的なことを述べてるだけですので。何かを新たに立証する人のほうが、沢山の資料を調べる必要があります。


>「原爆被爆者動態調査」について私が示唆したのは同じページです。


すいませんが、urlが引用されていませんでしたので。
また、こちらのページでは、54万人について、それなりの推測が書いてあるのに、バグってハニーさんは「数字が大きいから不信」で済ませられていたので、新たに指摘したまでです。


>一つだけ分かったのはこれは新しい言葉だということです。新聞記事に登場するようになったのは2002年からです。


新聞にいつ載りだしたかはともかく、原爆投下直後に入市した人で被爆者がいたことは、別に普通の話ですよね。


>私が持つ不信感はもっぱら広島市に対するものです。戸籍を勝手に抹消したり、外部専門家に委託した報告書がどうやら残っていないらしいなどの点から不信感を抱きました。誰でも似たような思いは持つとは思うのですが...。


そうですね。どのような経緯で戸籍が消されたのか等については私も知りたいと思います。
で、それと「54万人は多すぎる」というのは別の話ということで良いですか?
「調査が信用できない」と「感覚論で54万は多すぎ」は、それぞれ別個の命題です。


>>まずそもそも「原爆死没者名簿」の名前の合計数と、学問的な推定値が違うのは当然という話をしてるのであって、それぞれの推定値の違いの話はしてないわけですが、なぜ、その話を持ち出すのでしょうか?
>「原爆死没者名簿」の名前の合計数と学問的な推定値の違いの話をしているのは私ではなくて広島市です。原爆推定死者数の約14万人と名簿登録数の約9万人との差、約5万人を埋めようと呼びかけているのは広島市です。


私がしているのは、2009年までの死亡者数について、名簿登録者数>推定死者数という話です。


1945年末までの原爆死者については、おっしゃる通り、名簿よりも推定値が多いわけですね。


さて、バグってハニーさんの孫引きになりますが、記事で書かれているのは「一家全滅などのケースもある」「すでに登録されてると思い込んでる遺族も多いはず」という点です。これについては、否定する要素はないでしょう。
名簿に漏れている死者は、どうしても出るだろうし、市は、それを追求するでしょう。


その差が、あと10人なのか1000人なのか5万人なのかはともかく、「今年は145人かー。じゃぁ、もうほとんどいないんだね、よっしゃよっしゃ」と広島市が言うわけもなく、言う必要もないでしょう。


それは政治的態度でもありますが、果たして、あげつらうほどのことでしょうか?


※名簿についての私の誤解を修正しました。



バグってハニー 2009/06/17 06:42
>>バグってハニーさんは「数字が大きいから不信」で済ませられていた


これで二回目の警告ですが、私の発言を引用する際には正確さを期すようにお願いします。「不信感」に関しては、2009/06/16 05:16の投稿で、それがこの数値に対するものではなく、広島市に向けられたものであることをはっきりと補足説明したはずです。原文は


>>当然、原爆の後で広島市に入った入市被爆者が含まれているとは思いますが、当時の広島市の人口をはるかに上回る大きな数値です。


となっています。「はるかに」という単語にやや私の主観が入っていると読み取ることも可能だとは思いますが、この一文は単に事実を述べただけに過ぎません。54万人という数値は当時の広島市の推定人口35万人よりもずっと大きいですから。


戸籍の抹消に関しては私のほうからはなんとも。とにかく企画総務局総務課の大東和政仁課長自身が「抹消した戸籍数が合計で、数百か数万か分からない」と証言しているんで。大東和課長が戸籍業務に携わってなくてよく知らずに発言しているという可能性もあるとは思いますが。記者が除籍簿に関して突っ込んでくれてたらもうちょっと何か詳しいことが分かったかも知れなかったですね。


入市被爆者はかつては被爆者援護法の条項から2号被爆者と呼ばれていたんですけど、そういう言葉が今頃出てくるというのは政治的な動機があるんで、私も蔵太さんと一緒で、そういうのにちょっと興味があります。


>>その差が、あと10人なのか1000人なのか5万人なのかはともかく、「今年は145人かー。じゃぁ、もうほとんどいないんだね、よっしゃよっしゃ」と広島市が言うわけもなく、言う必要もないでしょう。


これはその通りかなあと思います。一度や二度ポカやったところで、もうだから後はどうなってもいいや、とはならんですからね。ポカを他の手段で挽回しようとしていると好意的に受け止めることもできますし。ただ、私には広島市をあげつらっているつもりは毛頭ないです。お役所の不手際・失態を非難するのはよき市民としての務めだと思ってます。



id:motidukisigeru 2009/06/17 09:07
>バグってハニーさん
>>バグってハニーさんは「数字が大きいから不信」で済ませられていた
>これで二回目の警告ですが、私の発言を引用する際には正確さを期すようにお願いします。「不信感」に関しては、2009/06/16 05:16の投稿で、それがこの数値に対するものではなく、広島市に向けられたものであることをはっきりと補足説明したはずです。


それは論理的に成立しません。あのコメントで、数値が大きいことの指摘は、広島市への不信感の一部を構成しているわけですから。


>「はるかに」という単語にやや私の主観が入っていると読み取ることも可能だとは思いますが、この一文は単に事実を述べただけに過ぎません。


>「不信感」に関しては、2009/06/16 05:16の投稿で、それがこの数値に対するものではなく、広島市に向けられたものであることをはっきりと補足説明したはずです。


不信感の直接の対象がバグってハニーさん本人であることは、数値への不信感が存在することと矛盾しません。


・バグッてハニーさんの述べた数値は、当時のA市の人口よりはるかに大きいです。
・私は不信感を禁じ得ません。


このように書いた場合、前半は事実ですし、後半は、バグってハニーさんへの不信感ですが、不信感の原因が「バグッてハニーさんの述べた数値は、常識的な推定値より遙かに大きい」ことと読解するのは理の当然です。


まぁともあれ、では54万人は多すぎる、というのは、根拠のない主観ということでよろしいですね?


さて、そのように情報を整理すると、バグってハニーさんの感じている主観は、中國新聞の記事によるもののみ、ということになります。
逆に言うと、この記事がいい加減だったら、不信感の根拠は無くなる、ということでよろしいですか?


>戸籍の抹消に関しては私のほうからはなんとも。とにかく企画総務局総務課の大東和政仁課長自身が「抹消した戸籍数が合計で、数百か数万か分からない」と証言しているんで。


正直、私は、この記事の信頼性を疑っています。
この記事を読む限り、広島市は1945年以降の戸籍情報を意図的に消滅させている、と、読めますが、除籍簿は80年保存なので、それはおかしい。置き場所に困って破棄する例もあるようですが、45年は早すぎるし、また、広島市は除籍簿のデータ化を進めています。


たとえば、その証言ですが、戸籍の抹消が除籍簿への移転だとするなら、単に通常の手続きについて述べているだけで、除籍簿への移転の際、いちいち被爆者であるかどうかの記録をつけていない、という常識的な発言とも取れます。
プライバシーその他の観点上、遺族の許可をとらずに除籍簿に参照することは禁止されていますから、通常業務では、そのような統計は残らないでしょう(残したらまずいでしょう)。


企画総務局総務課が何をしているのかわかりませんが、単に通常業務に聞かれて「除籍簿に移転してますよ。そのうちの被爆者の数とかはわかりませんよ」と言ってるだけではないか、とも取れます。


だとすると、陰謀論めいた雰囲気を作っているのは、記者の書き方となるわけです。


専門家に委託したから根拠がわからない云々も、間違いとは言わないまでも、同レベルの伝言ゲーム、調べの足り無さに影響されている可能性があります。


>入市被爆者はかつては被爆者援護法の条項から2号被爆者と呼ばれていたんですけど、そういう言葉が今頃出てくるというのは政治的な動機があるんで、私も蔵太さんと一緒で、そういうのにちょっと興味があります。


2号被爆者より、入市被爆者のほうが、文字だけ見るとわかりやすいかもですね。
「原爆死没者名簿」の名称は誤解を招く、というのであれば、入市被爆者という用語については歓迎すべきではないかと思います。


入市被爆者について今頃言及するのは、愛・蔵太さんのように、「広島原爆の死者増を肯定する人は阪神大震災の死者増も考えるべき」というような、被爆の実態・影響について知らない人が増えた戦争体験の風化に対する危惧かもしれませんね。



バグってハニー 2009/06/17 15:23
>>54万人は多すぎる


だから、それは私が書いたんじゃなくて、Motidukiさんが書いてることでしょ。そうじゃなかったら、私がそう書いた部分を抜き出してくださいよ。私は「54万人は35万人よりも大きい」と書いただけで、「54万人は多すぎる」とは書いてないでしょ。


>>このように書いた場合、前半は事実ですし、後半は、バグってハニーさんへの不信感ですが、不信感の原因が「バグッてハニーさんの述べた数値は、常識的な推定値より遙かに大きい」ことと読解するのは理の当然です。


そういう読み取り方ができることは否定しません。ただ、それは誤解であって、Motidukiさんの読み取り方は私の真意ではないということを私は何度も説明してるわけでしょ。そりゃ私だって最初から誤読が生じないように完璧に文章を書けたらいいですけど、誰かが自分の意図と違うことを読み取った場合、そうではないと説明するしかないじゃないですか。それ以上私に何ができるというんですか。私の説明を無視して執拗に同じ主張を繰り返すMotidukiさんのやり方はとても誠実とは思えないです。


中国新聞の記事に対するMotidukiさんの感想は、ああそうですか、という感じです。別に私にはこの記事を弁護する義理はないし。Motidukiさんの感想に積極的にこの記事を否定するような指摘があるとは思わないですが、どんな新聞報道にも誤報の可能性はあるんで、14万人説に関する報告書がどこかでひょっこり出てきてそれを見ることができたら私もうれしいです。


なんかMotidukiさんとの間で議論が深まる感じは全然しないです。なんか新しいことがわかったらまた書き込みたいですけど。



id:motidukisigeru 2009/06/17 20:47
>バグってハニーさん
なるほど誤読ですか。誤読ということは、当然、正しい読み方、意図があるわけですよね。


> あと、広島市は「原爆被爆者動態調査」というのもやっていて、これによると被爆者総数は 54万1,817人にも上るそうです。当然、原爆の後で広島市に入った入市被爆者が含まれているとは思いますが、当時の広島市の人口をはるかに上回る大きな数値です。ソースが辿れなかったので参考記録、ということで。


主張1:「広島市は、こういうこと(戸籍の抹消等)をしている」
参考記録1:「広島市の発表している数値は、当時の広島市の人口をはるかに上回る大きな数値である」
結論1:「なんか、調べれば調べるほど不信感に苛まれるという感じです。」


私から見て、参考記録1は、主張1および結論1を補強する目的で引用されたように読めます。それ以外の読みかたが、どう成立するのかがわかりません。


もしこれが誤読という場合であれば、主張1、結論1の文脈において、参考事実1を提示された理由、意図について説明してください。


>Motidukiさんの感想に積極的にこの記事を否定するような指摘があるとは思わない


○3  戸籍法施行細則第五十一条第一項第一号及び第五十二条に規定する除籍簿の保存期間は、当該年度の翌年から八十年とする。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22F00501000094.html


これが1945年から60年で「数万から数百万」廃棄されているとすると、かなり重大な問題で、具体的には様々な遺産相続等で問題が出るはずです。これは感想ではなく、事実です。


私は、そのような問題が起きているという話を、この新聞記事以外に見つけられませんでした。ちなみに私はこの新聞記事が誤報である、と言ってるのではなくて、書き方が悪くて、あたかも広島市が大事な記録を勝手に処分しているように見えるようにミスリードしている、と、言ってるのです。


また、そもそもの発端からして、
> 展示パネルでは、1945年12月末までの原爆による推定(すいてい)死亡者数を「約14万人(誤差±1万人)」と紹介している。つまり13万から15万人の間ということ。2万人もの命がはっきりしないことになる。何でそんなことになるんだろう。不思議(ふしぎ)だよね。


とありますが、世界各国の様々な大量死事件を見て、1割程度のプラマイがあることは、そんなに「不思議」なのか、というのがまずあります。推定死亡者数と、名前が判明した者に4割のブレがあることも同様です。たとえば、ドレスデン爆撃の死傷者は近年の歴史家の推定においても、2万4千から4万の範囲で、4割程度のブレがあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bombing_of_Dresden_in_World_War_II


広島市にもドレスデンと同じように、様々な人間がいて、単純な人口情報では割り切れないことを調べていれば、「なんでそんなことになるんだろう」という疑問はでないはずです。



>なんかMotidukiさんとの間で議論が深まる感じは全然しないです。


私は、ここで、原爆に対する新たな事実を調べてるのではなくて、「自分がよく知らない範囲の知識」に関する取り扱いの姿勢、「不信感」等の表明のうかつさについて指摘しています。


被爆者数の推定について何かを主張したいのであれば、中国新聞の孫引き記事に頼るのではなく、図書館なりで刊行資料等にあたるべきでしょう。
疑問点、出発点としてウェブがあるのは良いですが、「戸籍を勝手に抹消したり、外部専門家に委託した報告書がどうやら残っていないらしいなどの点から不信感を抱」いたり、「調べれば調べるほど不信感に苛まれ」たりと言ったことを主張する前に、調べることがあるでしょう。
はい、俺もまだ調べていませんが、調べないうちから、「広島市に不信感」を表明したり、「広島原爆の死者増を肯定する人は阪神大震災の死者増も考えるべきかも」等とは主張しないようにしています。


・原爆被爆者動態調査事業報告書
http://www.amazon.co.jpdp/B000J6QDEW



id:lovelovedog 2009/06/18 03:33
「数値がいいかげんでも疑っちゃダメ」という人は、世の中には存在したとしてもそんなに多くないことがとりあえずわかった気になりました。


>「ぼくの日記そのものが無神経で不快」だとする人間も想定できるのですが、そうすると何も書けなくなってしまうのです。何かを書いている人の業と申しますか。
↑これは「みらい」さんのコメントに関するレスなので、あまり気にしないでください。


>阪神大震災の影響で、後になって死なれた方については、死者数に含めて良いと思います。


わかりました。



id:lovelovedog 2009/06/18 03:33
Factivaという記事データベースですか。ちょっと興味を持ちました。未確認ですが、万単位の朝鮮人労働者関係の人が亡くなっている、ということは事実みたいですね。

id:lovelovedog 2009/06/18 03:34
ささやかなお願いですが、ぼくの日記のコメント欄で「警告」的な刺激の強い言葉を使うのは避けていただけるとありがたいのです。「お願い」とかにしていただけませんか。

id:lovelovedog 2009/06/18 03:34
阪神大震災の被害のひどさの風化(経年劣化)ぶりも、けっこうたいしたもんだろうなぁ、と思いました。

バグってハニー 2009/06/18 05:36
あ、すいません。でも、これ以上ヒートアップすることはなさそうです。

id:motidukisigeru 2009/06/18 10:42
>愛・蔵太さん
>↑これは「みらい」さんのコメントに関するレスなので、あまり気にしないでください。


なるほど。
では、私が主張している「愛・蔵太さんの書き込みは、このような点が調査が足りておらず、結果として無神経である」という点については、いかがですか?


>未確認ですが、万単位の朝鮮人労働者関係の人が亡くなっている、ということは事実みたいですね。


それを調べる前から「それは多すぎだろう。」と決めつけ、書くことについては、いかが思われますか?


また再掲になりますが、「原爆死没者名簿」の人数と、学術調査的な意味での原爆による直接の死傷者数の推定は、目的が違うが故に、一致する必要もない、という点は同意いただけますか?



id:motidukisigeru 2009/06/18 10:46
>愛・蔵太さん
>阪神大震災の被害のひどさの風化(経年劣化)ぶりも、けっこうたいしたもんだろうなぁ、と思いました。


そうだと思います。
無論、広島・長崎の被害についても、風化は進んでいるでしょう。
そのような事態において、自分の限られた知識の中の常識で、安易に断言しないことが望ましいと思うわけですが、それについては、どのように思われますか?


「歴史について、教科書やネットで仕入れたような薄い知識で、言っても言わなくてもいいことを言って」みたりせずに「図書館とかにある資料」を「少し調べて」書くことが大切ではないかと思うわけですが、いかがでしょうか?



id:lovelovedog 2009/06/19 02:07
どうもすみません、「万単位の朝鮮人労働者関係の人が亡くなっている」というのは未確認の情報なので「万単位の朝鮮人労働者関係の人が亡くなっているということを事実としている情報があるみたいですね」に訂正します。「あるいは5万人とする報告」に関しては「それは多すぎだろう」という感覚は、ぼくは14万プラスマイナス1万人説が一般的になっている「死者数」からそう判断しましたし、それが間違った判断だということでしたら、間違っているだろう、というような根拠のある資料を教えてください(テキスト読み直してみたら「2万5千〜2万8千人、あるいは5万人」という部分を指して「多すぎだろう」と言うように読めたので「5万人は多すぎだろう」に訂正しておいたほうがいいような気がしました)。また、二つの資料の「目的」に関するはっきりした資料製作者側の主張が確認できなかったので「一致する必要もない」という考えに至るにはもう少し何かを調べる必要があるような気がします。

id:lovelovedog 2009/06/19 02:08
ぼくのテキストの中で具体的に何かを「安易に断言」しているようなテキストがあったらご提示ください。追記・訂正したいと思います。ただし意図的に(煽り・演出として)やっているものもあるので、そういうのは「この表現は演出です」という追記になるかもしれません。「だろう」は「気がする」と同じく、断言的言動としては使ってなかったつもりなんですが。

id:motidukisigeru 2009/06/19 05:02
愛蔵太さん
私のこちらのコメントの前提となる話ですが、あることを「感覚」として感じることと、それを主張することは、別です。まず、別段、前提となる知識を持ち合わせず、調査をしていない段階の「感覚」は、信頼できるものではありません。
次に、素朴な疑問として妥当であることの主張が、他者を傷つける可能性がある時、そこには慎重である必要があります。


例えば、レイプ事件や痴漢事件で「女のほうから誘ったのではないか?」と思うのは自由ですが、それを公に発言することは、被害者を強く傷つけることになります。仮にそう思う根拠が幾つかあったからといって、軽々しく言うべきことではないでしょう。
その可能性について発言するな、ということではありません。ただし、その際には求められる責任と配慮があるでしょうということです。


Q1:まず一般論として「そう感じることが妥当」であっても、「そう感じたと主張することが妥当」とは限らない場合がある、ということについては、ご賛同いただけますか?


レイプ事件について書きましたが、歴史的事実も、また同じです。「何万人が死んだ」という発言の背後には、一人一人何万の死があり、その遺族や友人、子孫の思いがあるわけです。


被爆者数推定というのは、一方では、ただの数ですが、もう一方では被爆者が社会に自分達を被爆者として認知してもらう行動の結果でもあり、そのような行動がスムーズに進み誰からも文句が出なかった、というわけではないことは言うまでもないでしょう。
そこには、認知されずに苦しんだ人、苦しんでいる人、死者の名誉回復を願う遺族たちが存在しているわけです。


それらの数字が間違ってるのではないか、と主張することは、その人達一人一人を苦しめることにつながります。それに対して安易な発言は人として間違っていると思うのです。


繰り返しますが、これは「被害者が言うどんな数字も一方的に受け入れろ」ということではありません。単に、発言するなら、しっかり調べた上で、慎重に発言すべきではないか、ということです。そうでないなら、調査不足を意識しているのなら、特段、発言しなければいいわけです。


Q2:原爆の朝鮮人労働者関係の死者数を俎上にあげて、単に「多すぎる」と主張することは、言われた側のご家族、関係者が傷つく可能性があることは、ご賛同いただけますか?


Q3:傷つく可能性があることを賛同していただける場合、愛・蔵太さんは、傷つける可能性があることを覚悟で、相応の責任と配慮をもって発言している、と、ご自分で思われますか?


>「あるいは5万人とする報告」に関しては「それは多すぎだろう」という感覚は、ぼくは14万プラスマイナス1万人説が一般的になっている「死者数」からそう判断しました


おっしゃる通り、元々の文章では、「2万5千〜2万8千人、あるいは5万人」という部分を指して「多すぎだろう」と言っているように読めます。私はそう読みました。で、多すぎるのは、5万人ということで、話を進めます。


5万人が多いと判断した根拠は、14万という数字と比較した際の割合からして多すぎる、というわけですね。
その推測が成り立つには、死者の中で、日本人と朝鮮人が、おおむね平均的に散らばっている、という前提があるわけです。


まず当時の広島市にいた人数と、その中の朝鮮人労働者関係の人の割合はご存じですか?仮に、それが35%なら何も不思議はないわけです。35%のはずはないと思われるのでしたら、何%なのか、調べられましたか?
次に、その人たちが、主に、どこに住み、働いていたかはご存じですか? 例えば、爆心地に近い場所に朝鮮人街があった可能性もありますね。地理的な不均衡はあった可能性があります。
さらに原爆の負傷者の全員に十分な治療が行き渡ったとは思えません。極限状況において、治療を優先して受けられるのは、社会的な立場が強いものであろうことは想像できます。控えめに言って朝鮮人労働者の方々の社会的立場が、あまり大きくないだろうということは想像できますし、そこにおいて治療における不均衡は、まずあったでしょう。


被害者の数については、ちょっと考えただけでも上記のような、データ不足、不均衡があり得ます。他にもあるでしょう。
故に、私は、単純に、二つの数値を比較して多すぎる少なすぎると断言できるような、単純な問題ではないと思います。


Q4:上記を踏まえ、愛・蔵太さんは、「14万人のうちの5万人は多すぎるだろう」と、単純に言えると思いますか?


そもそも朝鮮人被害者が多数いた理由は日本の強制連行であり、その数の推定に幅が出る理由も同じです。知ってか知らずかそれを無視して「多すぎるだろう」と述べるのは、私は大変に無神経であると思います。


>「だろう」は「気がする」と同じく、断言的言動としては使ってなかったつもりなんですが。


なるほど。「〜だろう」が、「断言」であるというのが論理的、語法的に正確ではない、ということでしたら、おっしゃる通りです。


「そのような事態において、自分の限られた知識の中の常識だけで、安易に結果を決めつけ、確立された特定の論拠を否定するような意志表示をことをしないことが望ましいと思うわけですが、それについては、どのように思われますか?」


と訂正させていただきます。


さて実際の文脈ですが、「それは多すぎだろう」と太字で強調して書かれた場合、この「だろう」は、ツッコミと読めます。「いちいち事実に当たるまでもなく感覚的に突っ込まれて当然だろ」というニュアンスです。


少なくとも「はっきりとした事実関係に当たったわけではないが、それを踏まえての個人的な感覚としては多すぎるように感じられる」というような中立的な主張には全く読めません。


私の感覚では、「誇大な数字をあげる人」を設定し、それを揶揄する意図を感じました。
それがうがちすぎで単に思ったことを述べたのであれば、それはそれで問題だと思います。「歴史について、教科書やネットで仕入れたような薄い知識で、言っても言わなくてもいいことを言っ」ている場合ですね。


念のために言いますと「〜だろう」という単語自体を問題にしているのではありません。記事の文脈および関連する歴史の中で、この発言がどう理解されるかというのを言っています。
重要なのは、自身の調査不足を踏まえて謙虚な立場で発言しようとしているか、関係者への配慮は行っているかであって、「〜気がする」でも「〜だろう」でも「〜かもしれない」でも、やろうと思えば、いくらでも無神経な発言は行えるでしょう。


Q5:私は上記のように読み取りましたが、この文脈で、朝鮮人死亡者について言及し、5万という数字を多すぎると思ったことを、わざわざ太字で書いた意図は、どのようなものでしょうか?



id:motidukisigeru 2009/06/19 05:40
>愛・蔵太さん
>また、二つの資料の「目的」に関するはっきりした資料製作者側の主張が確認できなかったので「一致する必要もない」という考えに至るにはもう少し何かを調べる必要があるような気がします。


Q6:「二つの資料」とは、具体的に何と何ですか?


さて最初のコメントで主張しましたが「原爆死没者名簿」の数字は、名簿という性質上、被爆者の数値を正確に計ることはできません。また登載の申し出に際して、細かく事実を検証することもしていません。
目的については、「広島に投下された原子爆弾により死没した方やその後に死没した方(被爆者健康手帳の有無、国籍は問いません。)の霊を慰め、人類の恒久平和を祈念するため」とあります。


一言で言って、これが厳密な調査であるとはどこにも書いてない。


私がここで問題にしているのは、愛・蔵太さんの主張、すなわち「原爆投下後数年はともかく、数十年というのはどうなんだろうな。」という批判です。
ある被爆者の死亡届けがでた際に、その死が本当に原爆由来かどうかを検証するような立場はあり得ますが、それは、申請された名前をそのまま奉納する「原爆死没者名簿」の立場とは違うのではないか、という話です。


もし「原爆死没者名簿」が、そのような立場に基づいて作られている、と主張したいのであれば、それを証明する義務は、愛・蔵太さんにあります。


Q7:「原爆死没者名簿」は死亡原因について厳密に判断、選別するような立場の名簿と思われますか? もし思うなら、その理由は何ですか?


さて、一方で原爆死没者名簿の数字が、誤解で、あるいは意図的政治的に学術的な死亡者数と混同して語られる場合は、あるでしょう。それを問題視する立場は理解できます。


ただ、それであるなら「原爆死没者数は、慰霊が目的で、細かい調査とかをしてるわけじゃないから、学術的には意味がない数値だね」と言えば済むことだと思います。
その場合でも「原爆投下後数年はともかく、数十年というのはどうなんだろうな。」という批判は、成立しません。

こちらのまとめ

愛・蔵太さんに関する意見は、まとめると、こんな感じです。


被爆によるがんの過剰リスクは、一生に渡る。
・よって数十年後の死亡者であっても単純に無関係と見なすことはできない。
・よって震災死者と単純に比較することはできない(その上で震災被害者の中でも長期的な被害はもちろんあるだろう)。
・原爆死没者名簿は、学術的な正確さを目指して作られたものではない。
・故に、原爆死没者名簿の死者数の数え方を単純に批判する意味はない。それは、学術的な意味での推定者数に対して行うべきだ。
・大勢の被害者が出ている事件に、安易に数が多すぎるだろうだの未だに増えるのは納得いかないだのということは、大勢の関係者を傷つける発言である。
・素人は発言するなというのではない。きちんと調べて慎重に発言するべきだ。

いわゆる一つのダブスタ

足利事件

今回の冤罪事件、容疑者の苦しみは想像を絶するもので、早急に補償が行われるのは当然だとして、他方、そんな大きな事件の犯人が放置されていることもたいへん深刻な事態です。早いところ、足利女児連続殺人事件(とあえて言いますが)の真犯人が捕まって欲しいものです。
足利事件 - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版

この記事だけであれば内容は同感。
だがしかし。

文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。
hirokiazuma.com

東浩紀氏の、この言動を引用するのであれば、上記のニュースも文字情報であり、相対的で弱いもので、すぐひっくりかえりうるものだ。

一方に慰安婦はいたと怒っている人がいて、他方に慰安婦は存在しないと主張している人がいる。ぼくに、というか、たいていの人にわかるのは、そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない。

なるほど冤罪であったかなかったかについて、一般人にとっては「そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない」のではないということになる。

この事件については、『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(小林篤著、草思社)というすぐれたノンフィクションがあるので、興味のあるかたにはこの本をお薦めします。

本については東氏はこのように主張している。

当たり前ですけど、政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間は常に少数です。それなのに、膨大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのなかで、左翼は自分に都合のよい情報をネットで集め、右翼も同じことをする。


ぼくたちがいるのはそういう環境です。そういうなかで、「政治」的な論争だと思われているものの多くは、完全に伝聞情報というか、一群の書籍のうえに組み立てられた解釈の争いにすぎない。そこからは、何ら科学的真理は出てこないし、新しい知見も出てこない。そういうことがすごく多い。

東氏の理解は、『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』という「一冊の書籍のうえに組み立てられた解釈」であって、「何ら科学的真理」はなく「新しい知見」も存在しないということになる。
絶対的真実は問題にしていない - 東浩紀の文章を批評する日記を参照)

共感しやすさ

南京事件慰安婦問題について、「政治性」を強調し、「どうせ素人にはわからない」という面を強調する一方で、足利事件については素直に語る。
それらの違いはなんだろうか?


特定の事件に対して、選択的に政治性を強調するのは、それ自体が政治性だ。
結局、東氏は、南京事件および慰安婦問題を否定する側にシンパシーがあるのではないか?
それらが無かった、と、考えているのではないにせよ、あったと主張している側の地位を落としたいと考えているのではないか、というのが、一つ推測される。


もう一つは、共感の問題だ。
東氏は、容疑者の苦しみと周辺住民の不安について語っている。容疑者が補償され、真犯人が捕まることを願っていると書いている。
容疑者の苦しみと周辺住民の不安について心から共感し、そのように思うのは当然だ。


「それが冤罪だというのも一個の政治的立場であって、真実・事実かどうか、我々には知る手段がない」というのは一面の真実であるが、それは口にしにくい。
俺だってしない。言われる相手のことを思うからだ。
また、それを口にすることで叩かれやすい、というのもあるだろう。


だが、もしそうであるなら。
足利事件の冤罪被害者を思いやる気持ちがあるのであれば、従軍慰安婦南京事件の犠牲者を思いやることはできないのか?
それらの政治性、事実の不透明性を強調することで、傷つく被害者がいることには思い当たらないのか?

D.ポストモダニズムリベラリズムの立場とは、このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ。

素直に共感できる対象については素直に語り、共感できないものについてだけ政治性を主張するのであれば、それはハードでもなんでもないし、自己矛盾もしていない。
ポストモダニズム系リベラルについて詳しいというつもりはないが、例えば皆が冤罪問題について共感している時に、あえて叩かれることを覚悟で「冤罪でない可能性」「冤罪を認めることで傷ついた警察や検察の立場」等を言及するのであれば、そこには価値があると思う。
逆に、叩きやすいものを叩くのであれば、それは最低の日和見、贔屓、差別だ。

共感を補うもの

もちろん、足利事件に比べて、慰安婦南京事件に対して、感情レベルで共感するのは、難しい。やりにくい。
時代も違うし国籍も立場も違う。
また人間は、個人に対しては感情移入しやすいが、「集団」に対してはそれがしにくい。
日本人であるなら、日本軍がした悪いことについてはあまり信じたくないわけで、さらに共感しにくいバイアスが働く。


ただし、共感できない対象についてのみ、政治性や断絶を強調するのが問題なのは言うまでもない。

誤差の相殺

人間は、身内を贔屓する。共感できる相手に対して優しい。そういうバイアスが入る。それはしょうがないし、一概に悪いことでもない。
好きな人を高く評価するというのは、好きな人の、良いところは、よく見えるということでもあり、それはそれで素晴らしい。


でもだからこそ、単純に共感できない相手に対してこそ、思いやるべきだ、と、思う。
そういう相手に対しては自分が中立のつもりで冷たく当たっている可能性が高いから、意識的に優しくして、ようやくバランスが取れる、という考えだ。


「中立性」というのは、左右の主張に対して位置取りをすることではなく、そのように自分に対して厳しくなることだと考える。

科学者とは自説を攻撃するものであるということ

科学的な立証とは

定説が定説である所以は、先に書いたとおり、無数の批判・検証にさらされて、無数の論拠を持つことによる。


それらを、たった一個でチャラにするような銀の弾丸がある、とは、通常、考えにくい。


もしも、「この事実αさえ立証すれば、定説Aは崩れ去る」みたいなものがあれば、その事実αは既に何重にも検証、検討されているはずである。
トンデモと科学を分けるもの - 東浩紀の文章を批評する日記

先日のエントリーで、このように書いた。
科学というのは、自己批判によって成り立っている。科学において、説を立証したり強化したりする、ということは、それを様々な角度から批判することと同じである。


なので、科学者は新しい説を立証しようと思ったら、自分で自説を思い切り批判するところから始める。
想定されるあらゆる角度から「この説が正しかったら、ここはこうなるはずだけど、実際どうよ?」というのを自分で積み上げてゆく。積み上げてから潰してゆく。潰しきれないところについては「こういう疑問があったけど潰しきれなかったよ」と正直に書く。


もちろん、人間のすることなので、間違いや不足には事欠かないし、利権やらメンツやが絡んで、ややこしい話になる時もある。誰だって、やっぱり自説は可愛いので攻撃されて怒ったり喧嘩したりもする。けれど、少なくとも、それらが当然の手続きである、ということは了解されている。


これは単なる道徳の問題ではなくて、当人の検証がいい加減なら、他の科学者から突っ込まれまくるし、いい加減な検証の論文をあげる人は大きく評価を下げる。科学者が科学者としての評価を得るためには、自説への容赦ない攻撃が必要なのだ。
このへんは、論文を一本通した人であれば、同意してもらえるだろう。

ありがちな誤解

普通の科学解説書には、そういう背景はなかなかでてこない。
紙幅とまとめの都合で「新しい仮説を出した→観測事実や実験と一致した→うお、こいつ天才!採用!」くらいのノリで書かれているが、実際には、すげー地味〜な研究を一つ通すだけでも、死ぬほどの苦労がなされているのだ。


派手な研究……すなわち、大きな枠組みの仮説や、既存の定説を覆すような主張であれば、必要とされる批判的検証の量は、さらに膨大になる。本当の天才がエレガントな説を出して、「おっ、これは正しそう」と聞いた瞬間にみんなが思って、実際正しかったような場合であっても、そういう膨大な批判的検証はなされてきた。

それはそれとして

まぁそういうことなので、科学者の中で長年もまれた定説に関しては、素人レベルでは、比較的、気楽に援用することができる。
逆に、定説と異なる主張については慎重になったほうがいい。


もちろん、ネットのカジュアルな状況で、論文誌の査読並の検証を要求するのもバカバカしい話ではある。
素朴な思いつきを書けるのもネットの良いところで、そこから話が広がることもある。


とはいえ、新しいことを主張する時には、相応の謙虚さは必要だろう。
そこにおいて大切なのは、「自説に対する批判的検証の視点はあるか?」という視点だ。


定説に反することを自信たっぷりに書かれている場合、私は眉に唾をつける。
逆に、誰かに言われる前に、自分から自説の問題点を洗い出している人には、私は好感が持てる。

不確定な中で考え続けるということ

さてさて、世の中というのは、よくわからんことが多い。
調べたら調べた分だけ、わからなくなるという場合もある。
専門家だって、完全な答えを持っているわけではない。専門家というのは、「ここからここまではわかってるけど、ここから先はわからない」という点に厳しい人達のことだ。


で、それは昔っからそうだったし、これからもそうだろう。
ただ、それはしかし、素人として妥当な判断を下す方法が全く無い、ということではない。
努力することで、よりよい判断ができるし、ちょっとした点に気を付けることで、努力の効率をあげられる。


逆に、「不確定な世の中なので、どんな判断も意味がない」というのを過剰に言い立てる人は、私は警戒する。難しい判断というのは確かにあるが、普通に考えて済むこと、それが役に立つことのほうが多い。


不確定な世の中であっても、考えるということは十分に有効だ。
逆に言うと、先のような発言は意図的であれ結果的であれ「考えるのをやめちゃえ」とそそのかしているに等しい。


考えても解決しない問題もあるかもしれないが、考えるのをやめていいことがあるかと言えばないだろう。
敢えて、それらを勧める動機としては、例えば、自分が考え無しにいいかげんなことを言うのを正当化する場合がある。
あるいは、自分の望む結論に誘導するために、批判精神を停止させることが目的かもしれない。
後者の場合は、「感覚的には気持ちいい主張」とセットになっていることが多いだろう。


学問が何かを証明したとすれば、それは考え続けること、それも一人ではなく、皆で考え続けることの価値だ。そのことは覚えておいて損はしないだろう。

torinositoさんとの話追記

これまでの経緯

メタブクマの100字コメントで議論するのが不毛に思えてきたので移動します……。

torinosito
今回の騒動だと、30万人(a1)への懐疑を、南京事件(定説A)への否定と解釈した人が騒いでいたと理解。


motidukisigeru
犠牲者総数への疑義は、a1への批判にはなりえない、ということを本文に追記しました。


torinosito
id:motidukisigeruさん、「torinosotoさんはじめ、これを口にする人」私自身は特に30万が多いと主張したことありませんよ。ただ、最初から徹頭徹尾、話がかみ合ってないのを揶揄しているだけです。


motidukisigeru
なるほど。訂正します。で、id:torinosotoさんは、ある人々が持つ「30万人への疑義」が「a1への疑義」を構成すると思われたんですよね? で、それは間違いです、という話ですが、お分かりいただけましたか?


torinosito
「「30万人への懐疑=a1」と主張してる人は、今のところおらず」このモデルを出したのがid:motidukisigeruさんからですし、これまでに主張した人はいないでしょう。/認識の違いによるズレが延々と続いているわけです


motidukisigeru
結局id:torinosotoさんは「30万人への懐疑=a1」になる、ならないの、どっちと考えているんですか? 前者ならばそれは間違いですし、後者なら、30万人否定派が、間違った見識であるということで良いですか?


torinosito
見直しをしようとして間違ったIDでコールされているのに気がつく2回目/id:motidukisigeruさんがそう話しているのはわかってます。このモデルを書いたのが今回なのに「今までいない」なんて書いてしまうズレをつついてます


motidukisigeru
id:torinositoさん。はいそうですね。そこは間違いでした。訂正・お詫びします。で、Q1:「30万人=a1」はおかしい、は、理解できますか? Q2:「異なる立脚点」について、他に妥当な例をあげられますか

torinosito
定説Aの前提要素をa1〜anで分け、a1の前提要素をa1-1〜a1-nで分ける。Aの中に30万人を入れa1に各事件というのがid:motidukisigeruさん。一方Aが南京事件a1が30万人a1-*に各事件という立脚点の人が存在します


motidukisigeru
id:torinositoさん、分類は自由ですが、その分類の順で議論に疑問を出すのは、科学的な論証からするとおかしい、という話です。お分かりいただけますか?字数制限がきついならコメント欄へどうぞ。

まとめ

前回の100字まとめで書き損ないましたが。

Aの中に30万人を入れa1に各事件というのがid:motidukisigeruさん。

俺は、こんなことは言ってません。
犠牲者総数を導くには、複数の根拠を検討する必要がある、というだけです。

一方Aが南京事件a1が30万人a1-*に各事件という立脚点の人が存在します

Aは定説。a1はAを支える根拠です。
Aが南京事件であるとして、a1の犠牲者30万人は、南京事件の根拠には、なんらなり得ません。


関東大震災が存在したとする根拠は、犠牲者が10万人と推定されることである」
違いますよね。
関東大震災の根拠は、震災に関する様々な被害報告であるはずです。


単純に、事実を分類する方法として、南京事件→30万人死亡→各事件、という分類をするのは勝手なのですが、ここで問題視しているのは、「30万人というのは多すぎないか?」という問いを最初に発することの非論理性です。


正直、これが、なぜ、非論理的なのか、id:torinositoさんに分かってもらえたか、未だに自信がないんですが、わかってもらえてますでしょうか?>id:torinositoさん


そして、最新のメタブクマ。

id:motidukisigeruさん「全部検証することになり、ものっっっすごく長い議論になるます」で省略されましたが、細分類ではa1-*の中に偽が混じれば、a1での数は正確ではなくなり偽になります。でもそれはAの真偽とは別です。

ということは、私が、「a1での数が正確でなくなる」=「30万人ではない」=「南京事件が否定される」という風に短絡していると、お考えですか?
「30万人は多すぎる」=即「南京事件の否定」である、と。


そんなことは最初から言っていません。


私が問題にしているのは、妥当な推定、科学的な手続きの話です。
当人が、南京事件を否定するつもりであろうが肯定するつもりであろうが、そこに至る論理がおかしければ、結論がどうだろうとおかしい、という話です。


おっしゃった例で、a1が犠牲者推定数である場合、a1-*の中に偽が混じれば、a1の数は正確ではなくなりますね。
話を単純にして、犠牲者数30万という推定があり、a1-1が5万、a1-2が10万、a1-3が15万人の推定だとします。合計30万人というわけです。


この時、「a1-1は、5万人より少ないはずだ。多分3万人くらい」「だから」「a1は30万人より少なくなるはずだ」という議論は成立します。


ただし、そのためには、30万人説が、a1-1〜a1-3で出来ていることを把握し、その上で、a1-1を指定する必要があるわけです。
そのような議論に基づいて、「30万人は多すぎる」というのであれば、普通に議論ができるでしょう。


ただし、実際には、「30万人は多すぎる」というのを、そのような検討なしで持ち出す人がいる。
当人は、それは、「些細な問題」と考えているかもしれませんが、それを論理立てて行うには、先ほど書いたように、「30万人の内訳を把握し、具体的にどこが間違っているのかを指定」する必要がある、というわけです。

30万人について

ここで問題なのは、犠牲者数の推定には様々な幅があり、30万人という数自体は別に定説ではない、ということです。


なので、犠牲者数について言及する時、先ほどのようなことをしようとするのなら「私は○○説で、××人が基本的に正しいという立場にあるが、その上で、ここは違うと思うので、最終的に△△人になる」と言う必要があるわけです。


それをせずに、いきなり「30万人は多すぎる」というのは、結局、先人の説の検討を最初から放棄している、ということを示しているわけです*1
共有している前提がゼロであるため、「なぜ30万人ではありえないか」というのを説明しようとするなら、南京事件を構成する全ての事件について、最初から立証し直す必要があります。
これが、

「なぜならば〜」というのを書こうとすると、南京事件の全ての事件を全部検証することになり、ものっっっすごく長い議論になります。

と書いた理由です。

追記

id:torinositoさんからは、今回の一連の議論について、

それで、私のやっているのが、
>つっついて遊んでいるだけという人多いと思うよ。私みたいに。
いわゆるはてブ大喜利として使うという事の延長で、「俺様エライ論者」に対して腹黒系のネタをつっこむというやつです。
つっこむ内容としては、
・おまえの言っている事はこう解釈できるぞ、と、相手の言いたいことの反対の結論を出す。
・あいての主張のうち、本論ではなくその一部に対して、別の見方をだす。
などがあります。
これを「俺様エライ論者」の劣化コピーとして上から目線でやるのがコツです。
http://d.hatena.ne.jp/torinosito/20090604/metab#c1244200715

てなお答えをいただいております(こちらの記事も、向こうの記事も、コメント欄は進行中。お返事待ってます)。


ええ、私はもちろん私の議論が独善的で、本来聞いてほしい人に反感を買っている可能性があることは否定しません。
私も、他の人の議論に対して、そのように思う時はありますから。


その上で、それぞれの議論の話者は、様々な意図で、様々な相手に語りかけているわけですし、私自身にも様々な思い込みがあるわけですから、誰かの議論の他への影響について、きちんと判断するのは難しいことです。
そこへの自省がない場合、行き着くところは「おまえの言い方は気に入らない」になるわけで、そのような難癖は有害です。


そこにおいて、id:torinositoさんは、極めて断定的に、「motidukisigeruの議論は、噛み合っていない」と決定し、それに基づいて「上から目線で」「俺様エライ論」をぶつけてくるわけです。


このようなやり方は、ただ単純に迷惑なので、やめてほしいです。

はてブでつついた結果、反応したのがid:motidukisigeruさんで二人目なので、はてブではまだありませんね。
まあ、今回のを見ればこのアカウントからのつつきで反応する人は、今後いないでしょう。
このアカウントでは、はてブのみの大喜利モードに戻ります。

他のアカウントでは、同じ迷惑行為を続けるかもしれない、というようなことをほのめかしているのも性質が悪いです。
もちろんtorinositoさんが他のアカウントを使ってする行為について検証も強制もできません。
その上で、そのように無意味に他人に迷惑をかける行為については謹んでいただくようにお願いします。

*1:先人の研究を踏まえるなら、「○○氏の説の××人あたりの線で考えてます」で終わりなのよ。30万人以下の推定数出してる学者さんたくさんいるんだから

東氏の特異点分析

東氏の分析方法

2009-06-01 - 東浩紀の文章を批評する日記のコメント欄より。

motidukisigeru:
ポストモダンだから、作品性vs環境性
というわけでもなく、
ポストモダンだから、作家性vs物語の構造・性質、時代の意識
というわけでもなく、

現代特有の環境や消費の形や現代特有の意識を反映した物語構造を、抽出・分析している、という話ですね。

東氏が、ポストモダン的な心性・社会性を分析するために、作品の受容のされ方を分析する時、それらは当然、個々の作品ではなくて、それらを成立させている背後の環境・流通・消費形式への分析に向かうわけである。

その意味では、東氏の批評が「ネコミミの消費だけを語る」ことになる点は正当化されるだろう。

というわけで、東氏の問題意識が、ポストモダン的な心性・社会性を分析するために、作品の受容のされ方を分析しているとしよう。


さて、現代特有の環境や消費の形、現代特有の意識を反映した物語構造を抽出・分析するにあたって、大ざっぱに二つの方法論があると思う。


1.現代らしい作品群のピックアップと、共通点の抽出
2.特異点的な作品のピックアップと分析


この二つは、互いに補い合うものであり、どちらが欠けてもいけないものだ。

ネコミミ分析

端的な例として「オタクはネコミミを記号的に受容している」という現代的な消費の方法を推定する際、確かに、「コゲどんぼ」個人の絵柄とその作家性についての細かい議論は入りにくい。


けれど、その消費形式をきちんと分析するのであれば「ネコミミ系作品」および「ネコミミ系の流行・伝播」といったものを、広く集めて、それらを検証してゆく必要がある。


……が、私は、東氏がそれを説得力のある形でしているのを見たことがない。
東氏が、ポストモダンについて語る時、それらは、もっぱら、端的でわかりやすい作品についての分析を取ることが多い。
例えば、エヴァンゲリオンであり、Airであり、マトリックスであり、西尾維新である。

エヴァンゲリオン分析

エヴァンゲリオンという作品があって、オタク文化の中で、大なり小なり特異点あるいはエポックメイキングであることは了解されるだろう。


東氏は、エヴァンゲリオンの特異性を分析することで、時代の精神に迫ろうとする。この分析は、正しいか?


単純な話になるが「エヴァは、今までの作品と、ここが違う。ここが現代特有」というのを、しっかり指摘するためには、今までの作品をちゃんと見ていないとわからない。
「ここが新しい、現代特有」と東氏が考えた点は、5年前、10年前にもあったかもしれない。
もちろん過去にあった=ノットポストモダンというわけではないが、仮にエヴァそっくりの話が30年前にもあって大受けしていたとしたら、そこは比較検討すべき点となるだろう。

マトリックスポストモダン

例えば、東氏は、映画『マトリックス』がポストモダンの心性を反映した、と、主張している。


一方で、マトリックスのテーマである、バーチャルリアリティと実存不安を絡めた作品は、ごく昔からあり、それ相応に人気を得ている。
SFで言うなら、ディックの諸作品なんかは有名どころだろう。ラノベで言うなら、80年代から2000年代まで、この手の作品は、常に出ていて、一定以上の評価を得ている。
この時、考え方は二つある。


1.それらの作品が受けた時代と、現代は、共通する実存不安があった。例えば、ディックの作品がブレイクした時期は、アメリカのベトナム戦争およびLSDの広がりと重なっており、強く正しいアメリカという大きな物語の解体と薬物による現実崩壊という点で、ポストモダンである現在と共通点を持つ、等。


2.実存不安をうまく描いた作品は、いつの時代も定番の人気作であり、1999年にマトリックスが受けたのは、それ以外の理由……例えば、発展し続けていた特撮・CG技術が、ようやく、この時点で、そのテーマを表現できるようになった、等。


1、2のどっちかが正しいというわけではなく、複合的な理由であったり、また、それぞれの比重であったりといった議論ができようが*1、いずれにせよそれを調べるには、映画マトリックス単体を評論するだけで終わっては意味がない、とは言えるだろう。


マトリックス』を見て、「ここがポストモダン」と思うのは、結論ではなくて、出発点に過ぎない。

環境を調べるって大変よ

一般論として、個々の作品について感想を述べることに比べて、それらの作品全体を背後から支える条件について調べることは、大変にハードルが高い。


もちろん、個々の作品を本当に語るのであれば、その作品を支える時代や環境を理解する必要があるわけで、まともな批評を行うためには、きちんとしたバックグラウンド、勉強が必要だ、という当たり前の話だ。


なのだが、東氏は、そうした体系的な調査を避ける傾向があり、また、避けることを正当化しかねない発言を何度もしている。
また、彼の考える時代精神の反映の中には、どう見ても、おかしいものが混ざっている。
例:『ナデシコ』も『セイバーマリオネットJ』も、敗戦からくるアメリカコンプレックスの結果である。
第1章 オタクたちの疑似日本 - 東浩紀の文章を批評する日記

語りにくい特異点

エヴァンゲリオン特異点」というのは、テーマ、ストーリーのレベルから様々に語ることができる。


一方で、私は「美少女戦士セーラームーン」は、これはオタク文化と消費行動における、大きな特異点であるといって問題ないと思うが、東氏はこれには、ほとんど言及していない。

こうして'85年〜'86年から日本アニメは、大資本がバックについて国際的な評価も高い宮崎、押井、大友らのメジャー路線プラス、『ドラゴンボール』『美少女戦士セーラームーン』などの子供向けメガヒット路線と、OVA、同人誌、マニア雑誌という非常に閉塞したマーケットの中で堂々巡りの再生産を繰り返すオタク路線に分化していった。
『週刊SPA!』1997年4月30日&5月7日合併号「エヴァンゲリオンとは何
だったのか!?」
参考:
http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/topics/btoazuma.html

このように、エヴァに関する一般向け紹介の文章中で、セーラームーンをオタク路線と対照である「子供向けメガヒット路線」に分類しているほどである。


さて、なぜ、東氏にセーラームーンが分析できないかというと、ストーリー、テーマの面から見た場合、セラムンは勧善懲悪恋愛といった普通のもので、ポストモダンに絡めることができないからだろう。


一方で、セーラームーンがオタクサイドに確固とした位置をもち、オタク的な消費の中に新たな一角を作ったという点からすれば、オタクの反応と消費のされ方から、現代性、ポストモダン性を語ればいいはずだが、この方面の東氏の分析は、実に少ない*2


それをするのに当然必要な、具体的な市場分析やら聞き取り調査やら、そういうことを全く行っていないからだろう。


だから、「オタクは記号を消費する」レベルの話から、一歩も進んでいない*3


セーラームーンは一例であり、もちろんセーラームーンを取り上げていないことをもって、東氏の業績を否定することはできないが、私から見て東氏は、センセーショナルな作品の、わかりやすくセンセーショナルなポイントだけをピックアップし、そこから生まれる印象論で人を煙に巻いているように思える。
そうでない批評をしている部分があったら、お教えいただければ幸いである。

そもそもなんで、本やアニメを分析するのか?

 しかしもちろん、こういう「素朴リアリズムへの信頼」は必ずしも自明ではない。たとえば文学やマンガの中で多重人格が好んで素材として取り上げられているからといって、それが現実における多重人格現象を適切に反映しているとは限らない。
 というより社会について考え語りたいのであれば、文学やマンガなどすっとばしてジャーナリスティックな文献や社会科学書を読めばよい。プロの研究者やジャーナリストなら直接にリサーチを行えばよい。文学やマンガを通じて社会を見ようというのは、そのようなメガネを通じることによってこそよく見えてくる現象を主題とするのではない限り、効率が悪い。文学やエンターテインメントは特権的な社会の鏡やのぞき窓というより、社会の一部である。もちろんそれも社会研究の対象ではあるが、そこに社会の「全体」なり「本質」なりが見えてくるという保証はない。
『オタクの遺伝子』続編のための覚書 - shinichiroinaba's blog

サブカルチャーを手がかりにポストモダンを分析することには上記のような反論があり、これは全くその通りだと思う。


逆を言うならば、ジャーナリスティックなリサーチを厭う人間が、それをごまかすために作品論に逃げていないか?
その問題は、批評家は強く意識し、自省し、それを反映させるべきであると思う。

*1:そのようなCG技術の発展こそが、あらゆるものがニセモノであるかもしれないというポストモダン的な心性の反映であるとかなんとか

*2:オタク作品が記号でデータベースで……というのが、動ポモのでじこ以外で、まともに展開された例がありましたら、どなたか教えてください。

*3:そして、その文脈の中で、「コゲどんぼに作家性などない」「俺は作家性を理解できるけど、消費者は記号に反応しているだけ」と言うので、イラっとするわけだ。

トンデモと科学を分けるもの

定説と根拠

歴史学を含む科学においては、様々な定説が存在する。
通常、定説は、色々な角度から検証されている。
純化していうなら、「定説A」を支える根拠は、「a1,a2,a3,a4」と一杯ある。

定説に対する反論

科学の基盤の一つは、自分自身を疑うことである。様々な基盤を相互批判し、それによって、より安定な基盤を作り上げる。
だから定説だから批判されないということはなく、むしろ、数々の批判に耐えて残ったのが定説である、と、言える。


なので定説を批判することは全くタブーではないが、そのためには手続きがある。
「定説Aだけど、根拠のa1の、このへんが怪しくない?」という問題提起と研究は大切であるし、常に行われている。


ただ、問題提起した時点では、a1が本当に間違いかはわからない。
問題提起し、それが他の科学者によって様々に検証されることで、「あ、a1は確かに微妙かもね」となったり「a1のそのへんが怪しいかと思ったけど、調べ直したらやっぱり怪しくなかったよ」と言った結論に達してゆくわけだ。


そういう地道なことを一個ずつ積み重ねてゆくのが、科学的検証である。


検証によって、a1が否定され、定説Aの根拠の一角が崩れることもある。
そのようにa2,a3,a4も否定され、最終的に定説Aが否定されることは有り得るし、そのようなアプローチで定説Aに疑問を投げかけることは、全く問題ない。
逆に、検証によってa1の怪しい点が潰されて、定説Aがより強固になることもある。


だから、良心的な科学者は「a1のここが気になる」という指摘をする時、「定説Aは間違いだ!」などとは断言しない。
個人的に正しいと思っているか間違っていると思っているかはさておき、自分のやっていることが定説Aへの攻撃であると同時に補強でありうることも理解しているからだ。

トンデモな反論

一方、そうした地道な検証を無視して「○○が××なんだから、定説Aは間違いだ!」で定説を葬ろうとするタイプの反論がある。
これらは常識的に考えて、トンデモである確率が高い。


定説が定説である所以は、先に書いたとおり、無数の批判・検証にさらされて、無数の論拠を持つことによる。
それらを、たった一個でチャラにするような銀の弾丸がある、とは、通常、考えにくい。
もしも、「この事実αさえ立証すれば、定説Aは崩れ去る」みたいなものがあれば、その事実αは既に何重にも検証、検討されているはずである。


なので、上記の論が成立するには、
1.事実αに関する専門家のそれまでの検討は、全て間違いだった。
2.専門家が全く気づかなかった、事実αという定説Aの急所を、話者は新たに発見した。
の、どちらかということになる。


1だったら、既に検討・批判の文脈があるわけだから、一行で証明終わり、とはならないし、そうしていたら不誠実だ。
2は「俺は、世界中の専門家をまとめたよりすごい!」という主張なわけだ。
最終的には個別の議論を見なければ決定できないが、彼が厨二病である可能性は、彼が天才である可能性を大きく上回る、と、言ってもいいだろう。
さらに、もし本当に天才であるのなら、学会に提出することで大きな評価を得られるわけだから、そうすればいい、とも言える。

専門家への信頼

上記は専門家の検証による信頼を前提としている。
もちろん、専門家が常に正しいというわけでもない。
その分野を研究している人や歴史が少なければ、専門家の検証も相応に怪しくなる。
政治的圧力その他によって、専門家集団が大々的に間違えたこともある。


専門家だからといって常に何も考えず100%受け入れるとしたら、それはそれで偏った思考である。
ただまぁ、「ネットでだけ声の大きい人」と「きちんと論文書いて審査や批判に応えている人」のうち、一方的に前者を信用するのも、これまた偏った思考である。


確率的に言うのであれば専門家を信じるほうが分がいい、くらいは言えるだろう。
自分で調べるのが面倒であれば、一旦、専門家を信頼しておくのが賢いだろう。

南京事件否定派の言い分

さて南京事件において、専門の史学者は、南京事件と呼ばれる非戦闘員への加害行為は、数万以上の規模で存在していたということを認めている。これが定説である。


南京事件否定派の言い分は、様々にある。
そのほとんどが専門家の無数の検証を一つずつ反証するようなものではなくて、「○○が××なんだから、定説Aは間違いだ!」という「銀の弾丸系」のものである*1
また否定派は、複数の銀の弾丸を同時に上げることが多い。


このことから考えられるのは、以下の二つ。
1.否定派は専門家の業績を理解できないか、意図的に無視する不誠実な存在である。
2.銀の弾丸が幾つも出るほど、専門家の仕事は穴だらけである。


銀の弾丸」一個でも、トンデモの可能性が高いことは先に述べた。複数の銀の弾丸を同時に持ちだすのは、トンデモ確率が、その分跳ね上がる。

自分で調べるのなら

南京事件の場合でも専門家の権威は、否定派によって様々に攻撃されている。
「専門家は偏向している」「政治性の強い分野なので、まともな専門家がよりつかない」等々である。
その可能性はある一方、それを言ってる側が政治的に偏向して陰謀論を唱えている可能性もある。


仮に専門家への信頼を一旦置いて、どちらが正しいか自分で決める場合を考えよう。
「あっちが政治的偏向」「いやあっちだ」というのは水掛け論だから、具体的な論拠、論証に注目すればいい。


専門家の言い分を理解する際、一番望ましいのは、自分で資料に当たりつつ専門家の論文を追ってゆくことですが、なかなかそれは素人には難しい。
研究結果をまとめた啓蒙書や、さらにそれらをまとめたFAQなどがあるわけで、それらを読み解きながら、好きな深さまで調べれば良いだろう*2
否定派についても同様である*3


その上で、否定派は、専門家が提示している資料、証拠のそれぞれを把握した上で批判できているか?
否定派の出した証拠は、専門家の集めた論拠によって批判されているか?
といったあたりを考えればいいだろう。

追記

ブクマコメントより

id:torinositoさん
今回の騒動だと、30万人(a1)への懐疑を、南京事件(定説A)への否定と解釈した人が騒いでいたと理解。

「犠牲者数が30万人かどうか」というのは、a1への懐疑には、なりえないんですよ。
なぜなら犠牲者数というのは、南京事件を構成する無数の事実をそれぞれ一つずつ検証、分析した結果、最終的に推定される数なんですから。
少し具体的に言うなら、「何月何日に、どの部隊は、どこで何をしたという記録があって、何月何日には、ここでこういう目撃例があって、何月何日には、ここでこういうことが起きていたという証言があって……」というのを、丹念に集め、それをまた一つ一つ検証し、相互に比較、分析し、まとめた結果、やっと「合計○人の犠牲者がいると推定される」という結論がでてくるわけです。
つまり、「犠牲者は何人?」って聞く行為は、a1、a2、a3、a4の全部に関する質問なんです。


積み上げられた検証の検討をすっとばして、いきなり結論を求めているという時点で、科学的な手続きから外れているわけです。


南京事件について、a1への批判をするというのは、例えば、「南京事件の中で、××の部隊が、△△の日に、捕虜○○人を処刑したというのがあるけれど、これを支える資料のうち、ここがおかしい」という風に、はじまるでしょうね。


あるいはこうも言えます。「犠牲者者が30万人なのはおかしいと思う。なぜならば〜」という文章を考えてみましょう。
「なぜならば〜」というのを書こうとすると、南京事件の全ての事件を全部検証することになり、ものっっっすごく長い議論になるます。
でも、torinosotoさんはじめ、これを口にする人は、多分、そんな長い議論が続くことを意識していないでしょう。
「30万人はいくらなんでもおおすぎる。なぜならば、○○は××だからだ」くらいで済むと思っているはずだ。
であるなら、それは、先に述べた銀の弾丸そのものなのです。


もちろん、感覚的に「多いんじゃね?」「少ないんじゃね?」と思うのは自由ですが、科学的な手続きをすっとばし、専門家の研究を無視して、当てずっぽうで数が「多い感じ」「少ない感じ」と言うことに、どれだけ意味があるかは疑問です。
また思うのは自由として、発言する場合は、慎重になるべきでしょうね。発言によって傷つく人がいるわけですから*4

追記2

id:torinositoさん
id:motidukisigeruさん、「torinosotoさんはじめ、これを口にする人」私自身は特に30万が多いと主張したことありませんよ。ただ、最初から徹頭徹尾、話がかみ合ってないのを揶揄しているだけです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20090603/p1

該当箇所を修正しておきます。
さて、「30万人は多すぎる」と言っている人で、「30万人への懐疑=a1」と主張してる人は、今のところおらず、その分析を行ったのは、torinosotoさんなわけです。
さて、「30万人は多すぎる」と言っている人で、「30万人への懐疑=a1」と主張してる人は、今のところいるはずもなく(そりゃこの記事書いたばかりですから)、「30万人は多すぎる」派の人が「30万人への懐疑=a1」と考えてると、推定したのは、torinosotoさんご自身なわけです。


なので、torinosotoさんは、その分析にそれなりの妥当性を見いだしているのではないかと理解するわけですが、その分析が妥当ではなく間違いである、ということはお分かりいただけましたでしょうか?


要するに些細な一部分に対する疑問を、定説への全否定と勘違いした人が騒いでいる、と、おっしゃりたいんでしょうが、「30万人は多すぎねぇ?」というのは、言っている側の意識がどうあれ、「些細な一部分に対する疑問」ではなくて、「定説全体への疑問」にならざるを得ない、という話です。
確かに、感覚的にわかりにくい話であり、それによって混乱している方も多いと思いますが、そのために、こんだけ文章書いたので、わからんところがありましたらご質問いただければと思います。

*1:最近の例として、http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51470094.htmlの、「中国軍が虐殺を放っておくわけないから、南京事件は間違い」をあげておこう。

*2:念のために書き添えておくと、専門家の発言に矛盾や間違いを発見したと思った場合でも、結論は急がないほうがいい。自分の勘違い、読解力不足である可能性は高い。落ち着いて「これだとこうなるはずなんだけど、自分の理解はどこかおかしいかな?」と聞いて見るといいだろう。

*3:否定派のまともな論文というのは、ほとんどないし、それも怪しい理由なわけだが、さておき

*4:「原爆の被害者数って多すぎるんじゃね? 別に調べてないけど」と言われた場合を想像してみれば良いと思います。

南京事件の閾値、そんなものが不要な理由

南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

こちらのコメント欄で、たいがい長い議論をしてしまったので、移動。

いまさらながら・・・ - Apes! Not Monkeys! はてな別館

こちらのコメント欄も参照しつつ

さて、id:shivashantiさんは「南京事件の定義」を求めています。

「どの事実が否定されたら南京事件が否定されるのか」に答えることができなければ、どれだけ「あった理由」を並べても南京事件とは何かを語ったことにはならない。
真の南京事件否定論者 - 売り切れました

肯定派、否定派が存在することに対して、南京事件の内容が定義されなければ、肯定/否定はできないわけだから、対等な議論をするには「何が南京事件であるか」の定義が必要である、という話です。


また、その定義の一貫として、「大量の犠牲者」が含まれるのか否かというのを何度も聞いています。


一見、正論にも思えますが、このアプローチは様々に間違っています。

犠牲者の閾値

「大量の犠牲者」を「定義」として明示しない理由は、様々にあります。

1.議論の正確性についての手がかり

 例えば、犠牲者数100億人という人がいたら、その人の主張はそれだけで信用に値しないとは言えるでしょう。3人という人も同様です。
 その意味で、数値は議論の正確性についての手がかりになり、全く関係がないとは言えません。


 「犠牲者数は関係ない」と断言してしまった場合、「じゃぁ100億説も3人説も認めるのか?」という揚げ足取りが発生します。


 ただし、正確性について議論する場合は、結果としての一個の数値ではなく、その数値を採用するために、どの資料によってどのように検証したかが重要になるというのは、同記事コメント欄で書いたとおりです。

2.事実検討への意志

 南京事件でどのようなことが起きたのか、という細部については、現在も研究が続けられています。その結論として、様々な事実が明らかになっており、その一貫として数値推定も変化します。


 「数値は関係ない」というのは、「細かい事実とかどうでもいいよと言うんだな?」「これ以上、調べる必要はないんだな?」という揚げ足取りを生みます。


 「数値は関係ない」と明言することは、事実を拡大もしくは縮小しようとする政治的な行いに賛同することになってしまうわけです。

3.倫理の問題

 数値が関係ある、という言い方は、「では、何人以下なら事件性はないと判断するのか?」という話になります。
 そうなると例えば、「この状況で、5千人までなら、戦争だから仕方がないや」等の意志表示とも受け取れます。それは、倫理的に問題がありますし、また犠牲者やその家族に対して失礼でしょう。


 その意味では、数値の大小で事件性を定めることは倫理的、あるいは礼儀として間違っています。

4.常識論

 とはいえ、犠牲者が3人だったとしたら、確かに南京大虐殺とは呼ばれなかったでしょう。その意味で、数値の大小は関係ない、とは言えません。
 ある程度以上の規模があって大虐殺、事件と呼ばれている、というのは常識論として正しいです。

5.議論をする意味

 さて、南京事件の犠牲者が本当に3人かもしれない、というのなら、「どこからが〜」というのを検討する意味はあるかもしれません。


 ただし、推定数の中で、もっとも控えめな数字であっても大虐殺と呼べる数であることが了承されるなら、わざわざ数値による定義の議論をするのはバカらしいですわな。


 そういう議論をする意味は、俺はないと思いますし、その論点を執拗に持ち出す人は、上記1〜3の揚げ足取りを狙ってる人ではないか、と疑うわけです。


ぶっちゃけて書いてみましたが、南京事件の定義に犠牲者数を含めるかどうかという議論が、どんだけ無神経なものかの片鱗は、伝わるでしょうか?
書いている俺も申し訳ない気持ちです。

東京大空襲だったら

南京大虐殺を、東京大空襲に置き換えてみれば、id:shivashantiさんの言ってることのナンセンスさがよりよく分かると思います。


東京大空襲の定義って何だい?」
「(定義?)えーと、1945年3月10日に東京が受けた空襲、じゃないかな?」
「それだけだと定義にならないよ。例えば、米軍が行った空襲だよね。あと、多くの被害者が出た」
「……いやまぁ、そうだけど」
「ということは、多くの被害者を含むは、大空襲の定義に含まれるんだね?」
「よくわからんが、なんで定義が必要なんだい?」
「定義がなければ、東京大空襲が存在したかどうかの議論ができないじゃないか」
「なに、その議論?」
「否定派との議論だよ」
「否定派っているの? 資料とか沢山残ってるし、まともな学者で東京大空襲を否定する人っていないだろ」
「否定の定義によるよ。例えば犠牲者数の数は10万とされているけど、それについて意見が分かれることもあるだろう」
「いやまぁ推定数だから、どうしても幅が出るだろうけど」
「幅が出るということは、統一見解がないということだね」
「それは違うと思うけど……資料が色々あって分析の仕方の細かいところで意見は分かれるから推定値の幅はどうしても出るけど、でも、東京大空襲が存在しなかったとか言う人はいないよ?」
「うん。ということは犠牲者数が、東京大空襲の定義の一つなんだね?」
「いやいや、それは何か違うから」
「具体的には、何人以下なら、東京大空襲の定義から外れるのか。1000人かい? 一万人かい?」
「推定に幅があるといても、どう少なく見積もっても、数万は犠牲者数がいるわけだよね。そんな閾値を決める意味があるの?」
「議論の枠作りに必要だよ。そうしないと否定派と議論ができないだろう。さぁどうなんだい、犠牲者数は大空襲の定義に関係するのかい? するのであれば閾値は幾つだい?」
「あっちいけ」


まぁ、こんな感じです。

議論の公平さについて

同様のことは、関東大震災でも、なんでもあてはめられるでしょう。
関東大震災が存在したと言える定義、条件」は、どこかにはあるでしょう。被害者が何名以上だったから「大震災」として、通常の地震と違う形で呼ばれるに至った。
でも、そんな数字をいちいち考える必要がない。


「議論は公平であるべきだ。肯定派は否定派に対して定義を示すべきだ」と言うかもしれませんが、「無数の研究と専門の学者によって確立された歴史的事実」vs「よくわからん否定論」を、五分五分に扱うのが、まず不公平なわけです。


仮に、東京大空襲関東大震災について「否定派」が新しい証拠を出し、今の証拠の多くを否定しさり、結果、推定犠牲者数が「3人〜5万人」とかの幅を持つようになれば、その時は「事件の閾値」を考える意味も出てくるかもしれない*1


南京事件も、また同じです。
id:shivashantiさんは、「否定派との議論において」必要である、と、お考えのようですが、歴史学者の統一見解として、南京事件は犠牲者数万以上の規模では存在していることがわかっているわけです。
いまさら、そこに「否定派」とかを持ち出して、対等な論争条件を求める必要がないわけです。

*1:その時も別に閾値とか決めずに、現在の推定の幅は、この通り。追加の証拠が出てくるまでは判断保留、で、良いと思いますけどね。