「ロマンスとバトル」について

font-da.hatenablog.jp

作品抹消の正当化

二重三重に酷い記事である。

 

まず、重要な点として、一人の新人作家が、作品を発表後に、撤回させられているという大きな事実がある。新人作家が、大作家に遠慮した編集部によって、電子版から作品を削除され、名前も作品名もないまま、奇妙な「お詫び」が載っている。それをするに値する行動を、この新人作家はしたのだろうか?

「パロディ」=批判?

私が問題にしているのは第二の掲載媒体である。少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる。

ブックマーク等で、何度も指摘されているが、漫画における、いわゆるパロディと批判は異なる。

漫画とかでパロディといえば、必ずしもジャンルの偏見を鋭く批評するようなものではなく、「あぁそういうの、あるよねー。あるある」といった共感を呼ぶようなものがメインだ。

逆に言うと、そのジャンルを知らない人に、パロディを書いても、あまり面白がられない。

だから少年ジャンプでは無数に「努力・友情・勝利」をいじるネタが掲載され、「バトル漫画あるある」がコメディチックに描かれる。

通常、編集部は自分たちの発行物の購買層を想定し、そこに受け入られる範囲の内容の作品を掲載するはずである。

漫画で言うパロディ作品というのは、まさしく、雑誌購買層を意図して、そこに受け入れる作品として描かれるものだ。

もちろん、編集部が読者に受け入れられると判断したからといって、全部がそうなるわけではない。ギャグが滑ったり、ジャンルいじりが厳しかったりして、読者が不愉快になるものもあるだろう。

問題点の一つは、それを「読まずに判断した」ことだ。「読んでないけど、ジャンルパロディらしいから、雑誌に載せるべきではなかった」というのは、バカとしか言い様がない。

問題点の二つ目は、作品と作家が無かったことにされた、というのを理解していないことだ。仮に読者が不愉快になるようなものだったとして、それを認めて載せたのは編集部だ。編集部が読者にお詫びするのはいいとして、その作品を勝手に取り下げることが許されるか。

私は「ジャンルに批判的である」からといって、一度掲載した作品を、勝手に作品を取り下げ、作者名も作品名も出さず、ほぼ無かったことにするのは、深刻な問題だと思う。作品内容次第で、絶対にあり得ないとは言わないが、それを読まずに判断するのは、バカとしか言い様がない。

 たとえば、ある政治権力者の風刺画を発表するのは、官報ではない。体制に対して批判的な新聞である。権力者を批判したい人たちが買う媒体に、批判的な風刺画を掲載するのは合理的である。

余談だが、政治風刺は「あぁそうそう。あの政治家バカだよねー」という人の元に届けて完結するものではなく、それを読んで「あの政治家をバカにするのか!」と怒る人の元にも届けるものだろう。そうすることで問題を可視化し、議論を招くことが目的の一つだろう。政治風刺を「読者が怒らない範囲で消費」するのは「合理的」でもなんでもない。

 なぜ、「花とゆめ」編集部はこのような反応が予想できなかったのだろうか。私は二つの推測をしている。一つ目はミソジニーにより「女性読者は抗議などしない(または相手にしなくて良い)と思い込んでいた」という可能性。二つ目は「編集部内でこの漫画はウケてしまい客観的な判断ができなかった」という可能性である。特に後者については、いわゆる身内ネタでは「メタな笑い」はウケる。その身内ウケをそのまま商業出版物にまで発展させてしまったのではないか。ただ、この二点は全くの憶測であるので、全く違う事情があるかもしれない。なんにせよ、私はこのように少女漫画雑誌に少女漫画のパロディが掲載されたことは不可解であるし、どういう理由があるのか知りたいところである。

読まずに「この作品が読者に反対されるのは当たり前」「そんなこともわかってない編集者はバカ」と決めつけた上で、ゲスの勘ぐりを展開するのは、バカとしかいいようがない。

読まないゆえの事実誤認

 第三に表現の内容についてだが、私は当該の読み切り作品の掲載された号を入手できなかった。そのため詳しく立ちいることができない。だが、「漫棚通信」の中で記述されているのを読み限り、この読み切り作品ではC氏の絵柄に似せられたキャラクターが「「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女」として登場すると書かれている。「漫棚通信」ではC氏の絵柄を「バランスを失するほど眼が大きい少女の絵」と評している。だが、C氏自身は、眼を大きくしたのは子どもの認知能力でも表情を読み取りやすくするためだったと語っている*7。C氏が子どもに対する配慮として大きく眼を描いているの絵柄を選んでいるのに対し、A氏がその絵柄の特徴を掴む時にモンスターと名付けている。両者の漫画に対する姿勢を比較すると、A氏の絵柄の捉え方は非常に浅薄であると言えるだろう。

ここで、font-da氏は、完全に、事実誤認をしている。

これでは、作者がことさらに、「バランスを失するほど眼が大きい少女の絵」を描いて、それを「「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女」」と呼んでるかのようである。

それは事実に反する。

作品中で、少女が「BEM=BUG-EYED MONSTER」、巨大眼少女と言及される場所はない。それは漫棚通信氏の解釈である。解釈は私が読んだ限りでは、少女漫画としては普通に可愛いキャラであった。

 ともあれ、それを作者の解釈であるかのように決めつけて、「絵柄の捉え方が浅薄」だと言う。バカである。

 上の追記を書いてから、作品を入手して読んだが、作品の評価も記事の内容も変更の必要はないと、私は考えている。面白くない作品*10については、あまり言及しないようにしているので、今後も触れない。

読んでつまらないと思うのは、人それぞれだが、最低限、上記の事実の不正確さは、訂正すべきであろう。

不誠実な態度である。

面白ければそれでいいのか

 第一と第二の話をひっくり返すことになってしまうが、面白ければパロディは様々な批判を吹き飛ばす。その力が今回の読み切りには残念ながらなかった、という結論で良いように私は思う。

個人的に、一番気になったのは、ここである。

作品の面白い、面白くないと、作品が誰かを傷つけるかどうかは、全く別の話である。

面白い作品であれば、ジェンダーに対して偏っていて、人気が出る一方で、多くの人を傷つけるような作品であっても許されるのか。それは違う話だろう。

今回の作品が、読者を舐めていて、自虐を押しつけるようなものだというのであれば、「面白い」かどうかに関わらず、それはそれとして批判をすべきだろう。

もちろん、「普段は自分はポリコレの立場で、この作品はポリコレ的に問題だが、それでも胸に迫る面白さ、作品性の強さがあり、それを否定はできない」という立場はあるだろう。

しかし、今回の場合、その「面白い」の評価も、自分では読んでないのである。「読んでないけど、世間的に盛り上がってないから、たいして面白くないのだろう」と、下駄を預けている。

それはつまり、「はぁ、ポリコレ?性差別?何言ってるの。世間的に売れてるんだから、これはこれでいいんだよ。黙ってろ」という立場を追認することになる。

傷つけられた者

もう一度言うが、今回、傷つけられたのは、一人の新人作家である。「つまらないから、読者受けが悪かったから、一度発表された作品を無いことにされていい」というのは、私はありえないと考える。 

 私の評価

ブックマークにも書いたが、望月茂個人の評価を置いておく。

「ロマンスとバトル」は恋愛を否定するバトル漫画世界に放り込まれた少女が、依存的ヒロインから脱却し、恋愛の力で世界画を改革する話で、少女漫画への批判どころかフェミニスト的な観点からも面白い話である。

もちろん、花ゆめの新人作家の読み切りなので、そこまで肩が凝る話ではないが、少なくとも、ジャンル読者を批判して不愉快にさせるようなパロディである、とは思わなかった。 

「ロマンスとバトル」は大変、面白かったです。宇和野宙さんの活躍を祈念しております。 

 返事

ブックマークコメントが来ていたのに、気づいた。 

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/motidukisigeru.hatenablog.com/entry/2019/08/12/063821

  私はポリコレの話も傷つく/傷つかないの話もしてない。牽強付会な記事だなあ。もちろん、私に対する批判も好きにすればいいとは思う。

ポリコレを重視する主張をする人間が、「はある表現を分析する場合に気をつけること」について、被害者、傷つく人間が誰かを考えていないのは問題だ、という話であるが、伝わっていないようだ。

不愉快になる女性読者の立場に立つのであれば、作品を抹消された新人女性作家の立場も考慮すべき、という話であるが、それも伝わっていないようだ。

事実関連の間違いについてはコメントもなし。

これでは、id: font-da の目的は、ミソジニーで編集部をこき下ろすことが目的で、それ以外は何もないかのようだ。