インタラクションとかなんとか
さて「ゲーム性」という単語が、往々にしてゲームの性質そのものを語るためではなく、「難易度信仰」と「選民思想」を正当化するために持ち出されラベルである、と、昨日書いた。
「難しいゲームを理解できる俺、エライ!」というわけだ。
「文学性」とか「作家性」とかも似たような言葉だ。
ブンガクとは何か、オリジナリティとは何か、というのではなくて、要するに「難しい作品を理解できる俺、エライ!」と言いたいがために使われる言葉である。
これらは言い換えれば「自慢しやすさ」≒「語りやすさ」である、と、言えよう。
ゲームでもラノベでもなんでもいいが、「語りやすさ」というのは、その作品の価値の一つである。が、その価値の全てではない。
当たり前だが、これを忘れる人が多い。
例えば、ここに一冊のマンガがある。一人の読者が、このマンガを本屋で買ってから読み終わるまでについて考えてみよう。
まずは、本屋のどこに並ぶか、だ。とりあえず新刊の平積みだとしよう。この時、読者の目に飛び込むのは、本の版形と表紙だ。送り手(この場合、漫画家だけではなく編集、デザイナーから本屋さんまで含む)は、同じ平積みの他の本の中にあって、どのように目立たせるかを細かく計算している。
次に手に取った時の重さ、厚味。ひっくり返して裏表紙。そして値段。読み始めてからは、紙質や印刷も重要な要素だ。
どんなマンガであっても買ってもらわないと始まらない。そして、第一印象というのは非常に大切だ。それほど重要であるにもかかわらず、批評において語られることは滅多にない。
なぜか?
「語りにくい」からだ。本屋さんやデザイナー、印刷屋さんでなければ、それらについて語る言葉をもってないし、その人たちにしても、素人にたいして説明するのは難しいからだ。
この時点で、「マンガの批評」=「画像データの批評」になっている。それ以外のデータは全部捨て去られている。
その「画像データの批評」だって、難しい。一本の描線にも個性がある。枠線の太さだって重要な要素だ。少しでもマンガを描いたことのある人だったら、コマ割りがどれほど奥深いかは知っているだろう。
が、それさえも、素人の批評では忘れ去られる。
結果、「あらすじ」「キャラクター」「セリフ」「テーマ」といった、テキストとして引用しやすいものが中心となる。他の作品に比べて明らかに尖った部分なども「語りやすい」部分だろう。ゲームなら「新システム」だ。
それ自体は別に構わないのだが。
「ゲーム性」「作家性」「文学性」至上主義者達は、「語れる部分が多い=良作」「少ない=駄作」と決めつけ、「語れる部分が少ないのに売れてる作品=高尚なものを理解できない愚民向け」と決めつけることが多い。
というわけで、東浩紀氏である。
「インタラクション性よりも、中に描かれているものに対してゲーム性を感じている」
ここで東氏が考えている美少女ゲームのインタラクション性は、「テキストデータと、その分岐に対するコントロール」のみだ。
パッケージやインストール形態からはじまって、クリックにおけるテキストの表示タイミング。立ち絵の変化とそのタイミング。音声。セーブロード、ログ読みのインターフェース。そういう部分も、立派に「インタラクション性」なんだけどね。「語りやすいところ以外を無視する」罠にはまっている*1。
罠にはまっているのは、そこだけではない。
(とはいえ、こと美少女ゲームについてはけっこう真面目に調べているので、そんなにまちがったことは言っていないつもりですが)
http://www.hirokiazuma.com/archives/000247.html
という、東浩紀氏は、かつて、Fateについて、
ところが、『Fate』にはそういう工夫が一切ない。というか、ゲーム性がほとんどない。(中略)『Fate』は、そんな問題意識なんか一切なく、美少女ゲームの形式だけ借りて、マンガやアニメをシミュレートしてるだけ、という感じがした。
と書いている(「美少女ゲームの臨界点 HAJOUHAKAGIX」より)
どういうことかというと、「Fate」というゲームの内、東氏にとって「語りやすいところ」、即ち、キャラやらテーマやらだけ取り出したら、マンガやアニメと区別がつかなかった。だから「Fate」は「ゲーム性」がない、というわけだ。「語れる部分が少ないのに売れてる作品=ダメ作品」というわけだ。
すごく単純な話をすると、「Fate」のテキストは長い。
http://grev.g.hatena.ne.jp/keyword/text%2dsize
ここを参照にすると4Mほど。ラノベにすると、20冊以上。
4Mのテキストをそのまま起こしたラノベは読めない。4Mのテキストが入ったマンガやアニメに至っては論外である*2。
でも、美少女ゲームという枠の中で、Fateは、それを十万人以上に最後まで読ませる、ということをやった。
東浩紀氏にとっての「語りやすい部分」は、ノベルゲームが備える「マルチエンディング」と「メタフィクション性」だ。それは確かに美少女ゲームの一つの可能性だが、それ以外の作品を評価する軸を全くもってないというのは、批評家としては失格だよなぁ。
*1:このへんについては、昔にも書きました。http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20040919#p2