セカイ系と欠損批評の問題点

要約

セカイ系」の定義の中に、「社会描写が欠損」していることが入っている場合がある。
通常の物語から、何かを欠損させたのであれば、欠損させたことによって何を得たかの分析が必要であり、欠損だけで批評することは作品批評としては的外れである。

パソコンとハードディスクドライブ

さてここに、パソコンのモデルがあるとする。
一般に、ケース、CPUがあり、マザボ、メモリ、グラボ、ハードディスクドライブ(HDD)、光学ドライブといったパーツで形成されている。


この時、「HDDがないモデル」というのを考えて見よう。
「HDDがないモデル」の台頭を分析し、それらを買うユーザー心理と、その背景となる社会状況に思いを馳せる。


この分析に、意味はあるだろうか?

HDDがない意味

普通の人だったら、そんな分析をする前に、「なんでHDDがないの?」と聞くだろう。


例えば、自作モデルなので、HDDは自分で別に選んで取り付けることが前提となる場合があるだろう。この場合、HDDを搭載しないことで「拡張性」というメリットを得ているわけだ。


例えば、ネットブックなので、HDDを廃し、SSD等を搭載したモデルがあるだろう。
この場合、「低電力=長時間駆動」、「震動に強い」、「小型化可能」などのメリットがある。持ち歩く場合に、これらのメリットは発揮される。


ネットブックと自作モデルは、同じ「HDDがない」と言っても、意味合いは全然違っており、それを無視して「HDD無い系」で分析できるかというと、かなり無理があることは同意いただけるだろう。


通常ある要素が削られたモデルがあったとしたら、「何のために削ったのか」「削ったことによって得たメリット」に注目する必要がある。

社会がない意味

セカイ系」という言葉は、「ぷるにえブックマーク」の、ぷるにえ氏(id:tokataki)が、発言しだした後、様々な伝言ゲームを経た言葉で、明白な意味は拡散している(「セカイ系とは何か」前島賢を参照のこと)。


さておいて、拡散している定義の中に「社会描写が無い作品群」というものがあり、それを前提とした批評は幾つか存在する。
典型的なものを、はてなキーワードから引用する。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF

[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。特に『最終兵器彼女』などは、「きみとぼく」が「世界」の上位に来ている、すなわち「きみとぼく」の行動で「世界」の行く末が決まってしまうという設定であるのも興味深い。
(中略)
なぜ、セカイ系といわれる作品群がこれほどまでに多くの若者に受け入れられるのかというと、若い時代に特有の心理があげられる。たいていの若者は大人と違って経験の蓄積もそれほどないため、その場の空気の読み方などといった、この世の”社会の約束事”は非常に複雑に感じ、己が社会と付き合っていくことにわずらわしさを感じる(=ウザイ)のが普通だ。そのために、社会との接点を”すっ飛ばした”セカイ系の作品は、”自分がそこに居たらどんなに心地よいだろう!”と感じるため、すんなりと入っていきやすいのである。

ここでは、「社会をすっ飛ばした」ことが、「若者の心理」と結びつけられて語られている。

たとえば「最終兵器彼女

セカイ系が「社会の描写を削った」作品群だとすれば、当然ながら、「削ったことで何を得たのか?」という疑問が生じる。
それぞれ見てみよう。


たとえば「最終兵器彼女」という作品の場合、この作品が追求しているテーマは「極限状態の恋愛」である。
古今東西、追い詰められる恋愛のお話は、様々に存在するが、追い詰められた状況に対応する解決策として、駆け落ちがある。
ロミオとジュリエットの頃から、これはそうである。二人で、どこか遠くまで逃げて、幸せに暮らしましょう。というわけだ。
そして、ロミオとジュリエットの頃から、そうそう簡単に駆け落ちできないギミックが存在している。


最終兵器彼女」の駆け落ち対策は、根本的なものである。つまり、「逃げ込める世界の果て」を、先回りして、全部ぶっ壊してしまうことだ(笑)
どこもかしこも焼け野原で「敵」が徘徊しているなら、そりゃ「駆け落ち」は出来ないだろうという話だ。そのために、セカイは壊れないといけなかった。


彼女が「最終兵器」であるというのも同じだ。彼女が兵器であれば戦争からは逃げにくい。「サイボーグ強化兵士」とか「戦術用兵器」とかでなく「最終兵器」なら、これはもう絶対に逃げられないという気になる。


「戦争で全員明日をも知れぬ命」というのも、極限状態の恋愛を構成する要素だ。明日死ぬかわからないからこそ、告白も浮気も、切羽詰まる。


最終兵器彼女」は、戦争についての具体的な描写やリアリティはない。
その理由は、「極限状態の恋愛」を描くのに必要でない、むしろ邪魔だからだ。
敵が何で、どのように戦っているか分かれば、「極限状態」では無くなる。「追い詰められ感」は減る。


このように、「最終兵器彼女」では「極限状態の恋愛」を描くためのギミックとして「社会の不在」が使われている、というわけだ。

たとえば「ブギーポップ

ブギーポップの場合、街角での学生や改造人間の戦闘というか、精一杯の足掻きが、見えないところで世界の運命を形作っている、というモチーフが沢山でてくる。
「社会の不在」というか「中間の不在」だ。
この意味を分析してゆこう。


まずは、「ブギーポップ」に限らず、ラノベ読者、若年層の感情移入できる主人公(要は、少年少女)が、世界を救おうとすれば、なんらかのギミックで中間は吹っ飛ばざるを得ないというものだ。
考えてもみよう。
社会がまともに機能していれば、世界の危機においては、大人達が様々な組織を通じて対応するだろう。
警察なり自衛隊なり消防署なり町内会なり国会なりが動き出す。そうした、おっさん、おばさんの群像劇は、もちろん面白いが、必ずしもラノベ向きとは、言い難い。
そうすると、少年少女が世界を救うなんらかのギミックが必要となる。
それは、「親から受け継いだ巨大ロボ」でもいいし、「七つ集まると願いが叶う不思議な玉」でもいいし、「部外者には見えない、不思議な超能力」でも構わない。


次に、ブギーポップの「中間の不在」は、そこにある(はずの)設定への興味をかきたてるギミックとして機能している。要は「謎」だ。
統和機構の目的が何で、その幹部や首領は、どういう人物、どういう能力で、MPLSの存在が世界をどう変えるか、等々は、(少なくとも初期において)大いに議論の対象となり、読者の興味をかきたてた。
作者の異なるシリーズとの世界観の連続も、それらの関連性を通じて、おぼろげに見える世界観に対する興味がある。


第三に、寓話的リアリティとも言うべきものがある(この項、分析が甘いと思うが、ご寛恕あれ)。


聖書にソドムとゴモラの逸話がある。
罪深きソドムとゴモラを滅ぼす前に、神はそのことを予告し、ロトの叔父、アブラハムは神に問う。
この都は、確かに罪深いかもしれないが、それでも、たった10人、たった10人、善人がいるかもしれない。そうしたら、神はソドムを滅ぼすのですか、と。
神は、10人の善人がいれば、都を滅ぼさないことをアブラハムに約束する。


ソドムという巨大な都市の中で、神と触れる預言者でもなく、支配者たちでもなく、たった10人のの善人が市井にいるかどうかが、破滅と存続を分ける。
これは、そんな寓話だ。


個人的に、「ブギーポップは笑わない」のエコーズの審判には、この話に近いものを感じる。


ブギーポップ、上遠野のストーリーには、これに近いメタファーが沢山でてくる。
世界の命運が、それを直接目指す「最強」とか「権力者」によって、ではなく、誰も知らないところで、当人さえも気付かないうちに、ただの気まぐれや、ほんのわずかな努力で大きく左右されている、というものだ。


これらは逆説的に、個人と社会と世界の在り方を描いているのではないかなぁ、と、私は思う。


(ベタベタな話をするが)つまり、現実世界において、我々が考える社会や政治というのは、それこそ統和機構の如く意味不明で、そこにおける自分の存在というのは、ほとんど無いに等しいと思い込んでいる。
自分ごときが何をしたところで、大きな社会、世界が変わることは無いと高をくくっている。


けれど、本当はそうではない。統和機構的な権力者だって、世界をまともに制御できているわけではない。
普通の人の何気ない行動の集積は、大きな流れを作っている。
また何かすることで、案外、身の回りは、そして社会まで変化したりする。
そうした希望や不思議な縁を、上遠野は小説の形で書き続けている。
「社会との切断」ではなくて、個人と社会と世界の連携を、小説として寓話的に描いている。


……ここまで要約してしまうと、色々大切なものが抜け落ちてしまうわけだが、たとえば、そういう解釈もある。

セカイ系

作品解釈が長くなった。
何が言いたいかというと、このように目的に差がある時に、単に「社会描写の欠損」という点を持って、作品群をくくるのは意味がないだろう、ということだ。


最終兵器彼女」の場合、設定の欠如は、それ自体は、あまり興味を誘わない(人それぞれだけどさ)。
ブギーポップ」の場合、設定の空白は、好奇心、分析欲を刺激する。
最終兵器彼女」の場合、描きたいのは、恋愛をはじめとする人間同士の絆のつながりで、そのために極限状態がある。
ブギーポップ」の場合、描きたいのは、人間関係だけではなく、個人が周囲の人間関係の中で動くことが、社会・世界といつのまにかつながっていることだ。


また逆の視点から見ることもできる。
たとえば「最終兵器彼女」は、恋愛物である。
そもそも恋愛物は、普通、主人公回りの小さい人間関係に焦点が当てられるもので、社会に関する描写は少ない。普通の学園ラブコメ読んでて、教育委員会とPTAと教師とそれらの形作る社会などの描写は、あまり無いだろう。
そう考えた場合、「最終兵器彼女」は、「社会が欠如」しているのではなく、通常の恋愛物と同程度に社会描写をしている、とも言えるのだ。
それを、例えば、通常のSFバトル物と無意識に比較してるから、「社会の欠如が〜」という話になる。


私からすると「最終兵器彼女」と「ブギーポップ」は、自作モデルとネットブックくらいには異なった作品に思える。
もちろん、それを踏まえた上で、共通点について語ることはできるだろうし、それは否定しない。


ともあれ「セカイ系」という言葉で、作品や文化を分析しようとする時、単なる欠損部分にのみ注目してまとめてしまう議論は、本当に数多いし、それらは、ほぼ無意味だ、ということだ。

セカイ系だけじゃない

このへんは、無論、「決断主義」でも「空気系」でも、様々な用語に当てはまる。
作品に対する議論をする時には、何かの欠損や特化だけに注目する論点に気を付けよう。
そうした論は、往々にして、「それによってどのような効果を得たのか」という単純な点を無視している。