「ロマンスとバトル」について

font-da.hatenablog.jp

作品抹消の正当化

二重三重に酷い記事である。

 

まず、重要な点として、一人の新人作家が、作品を発表後に、撤回させられているという大きな事実がある。新人作家が、大作家に遠慮した編集部によって、電子版から作品を削除され、名前も作品名もないまま、奇妙な「お詫び」が載っている。それをするに値する行動を、この新人作家はしたのだろうか?

「パロディ」=批判?

私が問題にしているのは第二の掲載媒体である。少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる。

ブックマーク等で、何度も指摘されているが、漫画における、いわゆるパロディと批判は異なる。

漫画とかでパロディといえば、必ずしもジャンルの偏見を鋭く批評するようなものではなく、「あぁそういうの、あるよねー。あるある」といった共感を呼ぶようなものがメインだ。

逆に言うと、そのジャンルを知らない人に、パロディを書いても、あまり面白がられない。

だから少年ジャンプでは無数に「努力・友情・勝利」をいじるネタが掲載され、「バトル漫画あるある」がコメディチックに描かれる。

通常、編集部は自分たちの発行物の購買層を想定し、そこに受け入られる範囲の内容の作品を掲載するはずである。

漫画で言うパロディ作品というのは、まさしく、雑誌購買層を意図して、そこに受け入れる作品として描かれるものだ。

もちろん、編集部が読者に受け入れられると判断したからといって、全部がそうなるわけではない。ギャグが滑ったり、ジャンルいじりが厳しかったりして、読者が不愉快になるものもあるだろう。

問題点の一つは、それを「読まずに判断した」ことだ。「読んでないけど、ジャンルパロディらしいから、雑誌に載せるべきではなかった」というのは、バカとしか言い様がない。

問題点の二つ目は、作品と作家が無かったことにされた、というのを理解していないことだ。仮に読者が不愉快になるようなものだったとして、それを認めて載せたのは編集部だ。編集部が読者にお詫びするのはいいとして、その作品を勝手に取り下げることが許されるか。

私は「ジャンルに批判的である」からといって、一度掲載した作品を、勝手に作品を取り下げ、作者名も作品名も出さず、ほぼ無かったことにするのは、深刻な問題だと思う。作品内容次第で、絶対にあり得ないとは言わないが、それを読まずに判断するのは、バカとしか言い様がない。

 たとえば、ある政治権力者の風刺画を発表するのは、官報ではない。体制に対して批判的な新聞である。権力者を批判したい人たちが買う媒体に、批判的な風刺画を掲載するのは合理的である。

余談だが、政治風刺は「あぁそうそう。あの政治家バカだよねー」という人の元に届けて完結するものではなく、それを読んで「あの政治家をバカにするのか!」と怒る人の元にも届けるものだろう。そうすることで問題を可視化し、議論を招くことが目的の一つだろう。政治風刺を「読者が怒らない範囲で消費」するのは「合理的」でもなんでもない。

 なぜ、「花とゆめ」編集部はこのような反応が予想できなかったのだろうか。私は二つの推測をしている。一つ目はミソジニーにより「女性読者は抗議などしない(または相手にしなくて良い)と思い込んでいた」という可能性。二つ目は「編集部内でこの漫画はウケてしまい客観的な判断ができなかった」という可能性である。特に後者については、いわゆる身内ネタでは「メタな笑い」はウケる。その身内ウケをそのまま商業出版物にまで発展させてしまったのではないか。ただ、この二点は全くの憶測であるので、全く違う事情があるかもしれない。なんにせよ、私はこのように少女漫画雑誌に少女漫画のパロディが掲載されたことは不可解であるし、どういう理由があるのか知りたいところである。

読まずに「この作品が読者に反対されるのは当たり前」「そんなこともわかってない編集者はバカ」と決めつけた上で、ゲスの勘ぐりを展開するのは、バカとしかいいようがない。

読まないゆえの事実誤認

 第三に表現の内容についてだが、私は当該の読み切り作品の掲載された号を入手できなかった。そのため詳しく立ちいることができない。だが、「漫棚通信」の中で記述されているのを読み限り、この読み切り作品ではC氏の絵柄に似せられたキャラクターが「「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女」として登場すると書かれている。「漫棚通信」ではC氏の絵柄を「バランスを失するほど眼が大きい少女の絵」と評している。だが、C氏自身は、眼を大きくしたのは子どもの認知能力でも表情を読み取りやすくするためだったと語っている*7。C氏が子どもに対する配慮として大きく眼を描いているの絵柄を選んでいるのに対し、A氏がその絵柄の特徴を掴む時にモンスターと名付けている。両者の漫画に対する姿勢を比較すると、A氏の絵柄の捉え方は非常に浅薄であると言えるだろう。

ここで、font-da氏は、完全に、事実誤認をしている。

これでは、作者がことさらに、「バランスを失するほど眼が大きい少女の絵」を描いて、それを「「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女」」と呼んでるかのようである。

それは事実に反する。

作品中で、少女が「BEM=BUG-EYED MONSTER」、巨大眼少女と言及される場所はない。それは漫棚通信氏の解釈である。解釈は私が読んだ限りでは、少女漫画としては普通に可愛いキャラであった。

 ともあれ、それを作者の解釈であるかのように決めつけて、「絵柄の捉え方が浅薄」だと言う。バカである。

 上の追記を書いてから、作品を入手して読んだが、作品の評価も記事の内容も変更の必要はないと、私は考えている。面白くない作品*10については、あまり言及しないようにしているので、今後も触れない。

読んでつまらないと思うのは、人それぞれだが、最低限、上記の事実の不正確さは、訂正すべきであろう。

不誠実な態度である。

面白ければそれでいいのか

 第一と第二の話をひっくり返すことになってしまうが、面白ければパロディは様々な批判を吹き飛ばす。その力が今回の読み切りには残念ながらなかった、という結論で良いように私は思う。

個人的に、一番気になったのは、ここである。

作品の面白い、面白くないと、品が誰かを傷つけるかどうかは、全く別の話である。

面白い作品であれば、ジェンダーに対して偏っていて、人気が出る一方で、多くの人を傷つけるような作品であっても許されるのか。それは違う話だろう。

今回の作品が、読者を舐めていて、自虐を押しつけるようなものだというのであれば、「面白い」かどうかに関わらず、それはそれとして批判をすべきだろう。

もちろん、「普段は自分はポリコレの立場で、この作品はポリコレ的に問題だが、それでも胸に迫る面白さ、作品性の強さがあり、それを否定はできない」という立場はあるだろう。

しかし、今回の場合、その「面白い」の評価も、自分では読んでないのである。「読んでないけど、世間的に盛り上がってないから、たいして面白くないのだろう」と、下駄を預けている。

それはつまり、「はぁ、ポリコレ?性差別?何言ってるの。世間的に売れてるんだから、これはこれでいいんだよ。黙ってろ」という立場を追認することになる。

傷つけられた者

もう一度言うが、今回、傷つけられたのは、一人の新人作家である。「つまらないから、読者受けが悪かったから、一度発表された作品を無いことにされていい」というのは、私はありえないと考える。 

 私の評価

ブックマークにも書いたが、望月茂個人の評価を置いておく。

「ロマンスとバトル」は恋愛を否定するバトル漫画世界に放り込まれた少女が、依存的ヒロインから脱却し、恋愛の力で世界画を改革する話で、少女漫画への批判どころかフェミニスト的な観点からも面白い話である。

もちろん、花ゆめの新人作家の読み切りなので、そこまで肩が凝る話ではないが、少なくとも、ジャンル読者を批判して不愉快にさせるようなパロディである、とは思わなかった。 

「ロマンスとバトル」は大変、面白かったです。宇和野宙さんの活躍を祈念しております。 

 

 

 

 

15年目の日記

時は流れた

なんとなく更新したくなった。この日記の最初が2003年だから、だいたい15年近くが経過したことになる。
昔の文章には力みがあって恥ずかしい部分もあり、今から見ると不正確だったり、言い過ぎたりしてることも多い。
また15年経って色々と変化したこともある。様々なオタク作品、オタクジャンルの勃興と衰退。
その中には、「動ポモ」の記述に合うものもあれば、そうでないものもある。

初音ミクとか

かつて、東は、「デ・ジ・キャラット」の「でじこ」が、

市場の期待に応えるかたちで集団的かつ匿名的に作られてきた
(中略)
このような状況においては、「デ・ジ・キャラット」のオリジナルがどのような作品で、その作者がだれで、そこにはどのようなメッセージが込められているかを問うことは、まったく意味をなさない。

http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20030913/1063343100
と書いた。
実際には、でじこは、明確なキャライメージを持って作られたわけだが、彼が望んでいたようなものとしては、その後、登場した「初音ミク」があるだろう。


初音ミクの基本デザイン自体は、イラストレーターのKEIによるものだが、ユーザーによる利用を大きく認めた結果、本当に無数の「初音ミク」が楽曲と共に描かれ、それらは全て「正しい」ものとして許容された。
オリジナルがあって、それに従属する形の二次創作ではなく、あらゆるファンによる「初音ミク」の広がり全体が「初音ミク」というキャラクターを作り出したと言っていいだろう。

ソシャゲ

ソシャゲが出るまでは、ゲームというのは、パッケージソフトがメインで、重厚なゲームプレイを前提としていた。RPGなら、長いプレイ時間のかもしだす重厚なストーリーの中に、キャラが配置されていた。
キャラがメインと捉えられるゲームであっても、それを支える太い柱として、ストーリーやシステムがあるのが普通だった。


一方、ソシャゲにおいては、「キャラ」の比重は、非常に大きくなった。携帯電話のスペックの限定もあり、キャラ絵と、少ないセリフがメインとなり、プレイヤーは、大枚はたいて「ガチャ」でそれを獲得した。
もちろんソシャゲにはソシャゲなりのストーリーやシステムの方法論があるのだが、キャラの比重が非常に大きく、大量のキャラがデータベース的に配置されてることは間違いない。


その後、携帯電話が、スマホになり、スマホのスペックが上がるにつれて、ソシャゲのスペックも上昇し、様々なソシャゲが現れるようになった。
Fate Grand Orderなどは、Fateシリーズを引き継ぐ重厚な世界設定と、かつてのノベルゲームを思わせる長大な長大なストーリーをソシャゲに搭載し、それが大当たりしたから、世の中面白い。


もちろん、全部のソシャゲが長大化傾向にあるわけではない。ガラケーの頃に比べると、スペック上昇でストーリーやシステムも充実してはいるものの、「暇な時に、ちょろっとスマホ開いて、ぱっと遊べるゲーム」という部分は変わりないため、軽く遊べるタイプのソシャゲが主流であり、可愛いキャラ推しで、ストーリーシステム軽めのものが多い。

なろう小説

いわゆるラノベが、ゆっくりと低調になり、その代わりに出てきたのが、キャラクター文芸と、なろう小説である。キャラクター文芸は、ちょっとおいといて、なろう小説について。


いわゆるweb小説は昔からあったが、「小説家になろう」というサイト発の投稿作品が、数多く商業化され、一時代を築き、これが「なろう小説」である。
なろう小説の特徴は、そのほとんど全てが、「異世界転生もの」であることである。
現代人が異世界に行き、神から与えられた力や、現代知識などで、「無双」の活躍をするというタイプのストーリーが、大変に数多く量産された。


投稿小説サイト「小説家になろう」には、編集者は存在せず、ただランキングのみがあった。多くの投稿者が、ランキングを上げようとした結果、「最適化されたストーリー」が切磋琢磨され、その結果が「異世界転生」ものだったということのようだ。


もちろん、かつてのラノベの「ファンタジーもの」でも「学園異能もの」でも「萌えハーレムもの」でも、基本のパターンに沿った作品が量産されつつ、細かな要素が投下されるところはあったのだが、「なろう小説」は、その速度が異なっていた。


ラノベだったら、ある作品が人気が出て、それを真似した作品を書いて発売されるまでには、数ヶ月以上、かかる。
だが、「小説家になろう」はウェブサイトであり、完結してから投稿するのではなくて、短い連載形式なので、ある作品が受けたら、翌日には、それのフォロワーが現れ、それが受けたかどうかは、リアルタイムでランキングに表示されるのだ!


一世代の時間が短ければ、世代交代による進化も早い理屈である。おかげで、「異世界転生」というジャンルは、すさまじい速度で、様々な名作・怪作が現れた。
ただ、世代交代の速度が速すぎるが故に、飽きられるのも早かった感もあり、異世界転生ブームは、小説においては、徐々に先細りつつあるという印象を受けている(勘違いかもしれないし、これから再燃するかもしれない)。

なべて世はこともなし

ボーカロイドとしての初音ミクは成功し、世界に浸透したが、当たり前だが、全てのキャラが、初音ミク的になったわけではない。大半がそうなったわけですら、ない。
ソシャゲが流行し、データベース的なゲームが流行ったが、FGOのようなストーリータイプのものもある。
アニメや漫画、小説においても、データベース的な部分もありつつ、ストーリーの強さも健在である。


この日記を書いていた頃、自分はストーリーやシステムの強さを重視して、作家性のない、ストーリーの薄いキャラだけ、ネタだけの作品は、成立しないといったニュアンスのことを時々書いていた。それらは今考えると性急に過ぎた。


その上で、データベース的な作品も、1ジャンルを占めるようになったが、かといって、ストーリーやテーマや世界設定が大切な作品も健在である。
ソシャゲが現れたのは、携帯電話、スマホのスペックが上昇した結果、「どこでもできる軽いゲーム」が求められた技術的発展であって、別に、ソ連崩壊やエヴァンゲリオンとは、あまり関係が無かった。
そういう意味では、東氏の説は、あまり当たっていない。


これからも、色々なジャンルが生まれ、また消えていくだろう。その中には、作家性の強いものもあれば、データベース性の強いものもあり、その上で、そのどちからが完全になくなったり偏ったりすることは、あんまりないんじゃないかなぁ。

セカイ系と欠損批評の問題点

要約

セカイ系」の定義の中に、「社会描写が欠損」していることが入っている場合がある。
通常の物語から、何かを欠損させたのであれば、欠損させたことによって何を得たかの分析が必要であり、欠損だけで批評することは作品批評としては的外れである。

パソコンとハードディスクドライブ

さてここに、パソコンのモデルがあるとする。
一般に、ケース、CPUがあり、マザボ、メモリ、グラボ、ハードディスクドライブ(HDD)、光学ドライブといったパーツで形成されている。


この時、「HDDがないモデル」というのを考えて見よう。
「HDDがないモデル」の台頭を分析し、それらを買うユーザー心理と、その背景となる社会状況に思いを馳せる。


この分析に、意味はあるだろうか?

HDDがない意味

普通の人だったら、そんな分析をする前に、「なんでHDDがないの?」と聞くだろう。


例えば、自作モデルなので、HDDは自分で別に選んで取り付けることが前提となる場合があるだろう。この場合、HDDを搭載しないことで「拡張性」というメリットを得ているわけだ。


例えば、ネットブックなので、HDDを廃し、SSD等を搭載したモデルがあるだろう。
この場合、「低電力=長時間駆動」、「震動に強い」、「小型化可能」などのメリットがある。持ち歩く場合に、これらのメリットは発揮される。


ネットブックと自作モデルは、同じ「HDDがない」と言っても、意味合いは全然違っており、それを無視して「HDD無い系」で分析できるかというと、かなり無理があることは同意いただけるだろう。


通常ある要素が削られたモデルがあったとしたら、「何のために削ったのか」「削ったことによって得たメリット」に注目する必要がある。

社会がない意味

セカイ系」という言葉は、「ぷるにえブックマーク」の、ぷるにえ氏(id:tokataki)が、発言しだした後、様々な伝言ゲームを経た言葉で、明白な意味は拡散している(「セカイ系とは何か」前島賢を参照のこと)。


さておいて、拡散している定義の中に「社会描写が無い作品群」というものがあり、それを前提とした批評は幾つか存在する。
典型的なものを、はてなキーワードから引用する。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF

[きみとぼく←→社会←→世界]という3段階のうち、「社会」をすっ飛ばして「きみとぼく」と「世界」のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ。特に『最終兵器彼女』などは、「きみとぼく」が「世界」の上位に来ている、すなわち「きみとぼく」の行動で「世界」の行く末が決まってしまうという設定であるのも興味深い。
(中略)
なぜ、セカイ系といわれる作品群がこれほどまでに多くの若者に受け入れられるのかというと、若い時代に特有の心理があげられる。たいていの若者は大人と違って経験の蓄積もそれほどないため、その場の空気の読み方などといった、この世の”社会の約束事”は非常に複雑に感じ、己が社会と付き合っていくことにわずらわしさを感じる(=ウザイ)のが普通だ。そのために、社会との接点を”すっ飛ばした”セカイ系の作品は、”自分がそこに居たらどんなに心地よいだろう!”と感じるため、すんなりと入っていきやすいのである。

ここでは、「社会をすっ飛ばした」ことが、「若者の心理」と結びつけられて語られている。

たとえば「最終兵器彼女

セカイ系が「社会の描写を削った」作品群だとすれば、当然ながら、「削ったことで何を得たのか?」という疑問が生じる。
それぞれ見てみよう。


たとえば「最終兵器彼女」という作品の場合、この作品が追求しているテーマは「極限状態の恋愛」である。
古今東西、追い詰められる恋愛のお話は、様々に存在するが、追い詰められた状況に対応する解決策として、駆け落ちがある。
ロミオとジュリエットの頃から、これはそうである。二人で、どこか遠くまで逃げて、幸せに暮らしましょう。というわけだ。
そして、ロミオとジュリエットの頃から、そうそう簡単に駆け落ちできないギミックが存在している。


最終兵器彼女」の駆け落ち対策は、根本的なものである。つまり、「逃げ込める世界の果て」を、先回りして、全部ぶっ壊してしまうことだ(笑)
どこもかしこも焼け野原で「敵」が徘徊しているなら、そりゃ「駆け落ち」は出来ないだろうという話だ。そのために、セカイは壊れないといけなかった。


彼女が「最終兵器」であるというのも同じだ。彼女が兵器であれば戦争からは逃げにくい。「サイボーグ強化兵士」とか「戦術用兵器」とかでなく「最終兵器」なら、これはもう絶対に逃げられないという気になる。


「戦争で全員明日をも知れぬ命」というのも、極限状態の恋愛を構成する要素だ。明日死ぬかわからないからこそ、告白も浮気も、切羽詰まる。


最終兵器彼女」は、戦争についての具体的な描写やリアリティはない。
その理由は、「極限状態の恋愛」を描くのに必要でない、むしろ邪魔だからだ。
敵が何で、どのように戦っているか分かれば、「極限状態」では無くなる。「追い詰められ感」は減る。


このように、「最終兵器彼女」では「極限状態の恋愛」を描くためのギミックとして「社会の不在」が使われている、というわけだ。

たとえば「ブギーポップ

ブギーポップの場合、街角での学生や改造人間の戦闘というか、精一杯の足掻きが、見えないところで世界の運命を形作っている、というモチーフが沢山でてくる。
「社会の不在」というか「中間の不在」だ。
この意味を分析してゆこう。


まずは、「ブギーポップ」に限らず、ラノベ読者、若年層の感情移入できる主人公(要は、少年少女)が、世界を救おうとすれば、なんらかのギミックで中間は吹っ飛ばざるを得ないというものだ。
考えてもみよう。
社会がまともに機能していれば、世界の危機においては、大人達が様々な組織を通じて対応するだろう。
警察なり自衛隊なり消防署なり町内会なり国会なりが動き出す。そうした、おっさん、おばさんの群像劇は、もちろん面白いが、必ずしもラノベ向きとは、言い難い。
そうすると、少年少女が世界を救うなんらかのギミックが必要となる。
それは、「親から受け継いだ巨大ロボ」でもいいし、「七つ集まると願いが叶う不思議な玉」でもいいし、「部外者には見えない、不思議な超能力」でも構わない。


次に、ブギーポップの「中間の不在」は、そこにある(はずの)設定への興味をかきたてるギミックとして機能している。要は「謎」だ。
統和機構の目的が何で、その幹部や首領は、どういう人物、どういう能力で、MPLSの存在が世界をどう変えるか、等々は、(少なくとも初期において)大いに議論の対象となり、読者の興味をかきたてた。
作者の異なるシリーズとの世界観の連続も、それらの関連性を通じて、おぼろげに見える世界観に対する興味がある。


第三に、寓話的リアリティとも言うべきものがある(この項、分析が甘いと思うが、ご寛恕あれ)。


聖書にソドムとゴモラの逸話がある。
罪深きソドムとゴモラを滅ぼす前に、神はそのことを予告し、ロトの叔父、アブラハムは神に問う。
この都は、確かに罪深いかもしれないが、それでも、たった10人、たった10人、善人がいるかもしれない。そうしたら、神はソドムを滅ぼすのですか、と。
神は、10人の善人がいれば、都を滅ぼさないことをアブラハムに約束する。


ソドムという巨大な都市の中で、神と触れる預言者でもなく、支配者たちでもなく、たった10人のの善人が市井にいるかどうかが、破滅と存続を分ける。
これは、そんな寓話だ。


個人的に、「ブギーポップは笑わない」のエコーズの審判には、この話に近いものを感じる。


ブギーポップ、上遠野のストーリーには、これに近いメタファーが沢山でてくる。
世界の命運が、それを直接目指す「最強」とか「権力者」によって、ではなく、誰も知らないところで、当人さえも気付かないうちに、ただの気まぐれや、ほんのわずかな努力で大きく左右されている、というものだ。


これらは逆説的に、個人と社会と世界の在り方を描いているのではないかなぁ、と、私は思う。


(ベタベタな話をするが)つまり、現実世界において、我々が考える社会や政治というのは、それこそ統和機構の如く意味不明で、そこにおける自分の存在というのは、ほとんど無いに等しいと思い込んでいる。
自分ごときが何をしたところで、大きな社会、世界が変わることは無いと高をくくっている。


けれど、本当はそうではない。統和機構的な権力者だって、世界をまともに制御できているわけではない。
普通の人の何気ない行動の集積は、大きな流れを作っている。
また何かすることで、案外、身の回りは、そして社会まで変化したりする。
そうした希望や不思議な縁を、上遠野は小説の形で書き続けている。
「社会との切断」ではなくて、個人と社会と世界の連携を、小説として寓話的に描いている。


……ここまで要約してしまうと、色々大切なものが抜け落ちてしまうわけだが、たとえば、そういう解釈もある。

セカイ系

作品解釈が長くなった。
何が言いたいかというと、このように目的に差がある時に、単に「社会描写の欠損」という点を持って、作品群をくくるのは意味がないだろう、ということだ。


最終兵器彼女」の場合、設定の欠如は、それ自体は、あまり興味を誘わない(人それぞれだけどさ)。
ブギーポップ」の場合、設定の空白は、好奇心、分析欲を刺激する。
最終兵器彼女」の場合、描きたいのは、恋愛をはじめとする人間同士の絆のつながりで、そのために極限状態がある。
ブギーポップ」の場合、描きたいのは、人間関係だけではなく、個人が周囲の人間関係の中で動くことが、社会・世界といつのまにかつながっていることだ。


また逆の視点から見ることもできる。
たとえば「最終兵器彼女」は、恋愛物である。
そもそも恋愛物は、普通、主人公回りの小さい人間関係に焦点が当てられるもので、社会に関する描写は少ない。普通の学園ラブコメ読んでて、教育委員会とPTAと教師とそれらの形作る社会などの描写は、あまり無いだろう。
そう考えた場合、「最終兵器彼女」は、「社会が欠如」しているのではなく、通常の恋愛物と同程度に社会描写をしている、とも言えるのだ。
それを、例えば、通常のSFバトル物と無意識に比較してるから、「社会の欠如が〜」という話になる。


私からすると「最終兵器彼女」と「ブギーポップ」は、自作モデルとネットブックくらいには異なった作品に思える。
もちろん、それを踏まえた上で、共通点について語ることはできるだろうし、それは否定しない。


ともあれ「セカイ系」という言葉で、作品や文化を分析しようとする時、単なる欠損部分にのみ注目してまとめてしまう議論は、本当に数多いし、それらは、ほぼ無意味だ、ということだ。

セカイ系だけじゃない

このへんは、無論、「決断主義」でも「空気系」でも、様々な用語に当てはまる。
作品に対する議論をする時には、何かの欠損や特化だけに注目する論点に気を付けよう。
そうした論は、往々にして、「それによってどのような効果を得たのか」という単純な点を無視している。

生存競争は物語を作る

(記憶に残りやすくする工夫というのが、即ち、物語である、という話)

自然淘汰

世の中に、様々な作品がある。そして、それらを受け取る観客がいる。
観客のキャパに限界がある以上、全ての作品は、いかに観客の時間を得るかという生存競争にさらされる。
作り手も、その生存競争を勝ち抜きたい動機がある。商業作品であれば利益を出したいし、非商業作品であっても評判を高めたいと思う人は多いだろう。


結果、様々な作品は、より、観客の注意を引き、時間を得る方向に進化する淘汰圧が働く。


話がくどいが、要するに売りたいor有名になりたいという人が沢山いるから、その中で切磋琢磨が行われるという、当たり前の話である。


以降、この記事では、作品の内容について、「どれだけ観客を獲得できるか?」という点のみで分析する。
もちろん、作品の良さは、客の多さだけで計れるものではない。
作品の価値や質を定義するのではなく、あくまで、「どういう作品が広まりやすいか?」という点のみの分析である。

記号と競争

さて、特定の記号が観客の興味を引きつけやすい、としよう。
猫耳+メイド+ドジっ娘」とか、そういう記号が受けやすい、と、仮定する。
この時、何が起きるか?
記号自体をコピーするのが簡単である場合、競争と自然淘汰の原理が働く限り、「猫耳+メイド+ドジっ娘」の作品が、市場に増えてゆくことになる。


そうした作品が増えると、それぞれ「猫耳ドジっ娘メイド」好きの層を奪い合うことになるい、ここに競争が発生する。

記憶強度

さて、猫耳ドジっ娘メイドAと、猫耳ドジっ娘メイドBがいた時に、どちらが、より多くの観客を獲得できるか?


「何が売れるか? 流行るか?」という問題は永遠の謎であって簡単に答えはでないが、似たような意匠のAとBを比べてどちらが売れるか? というのであれば、少しは答えやすくなる。
つまり、より広まる≒より強い印象、より強い記憶を残すもの、と言えるだろう。


では強い印象、記憶を残すものとは何か?
記憶に関する研究を参照すれば、それがわかってくる。

記号の連関

人間というのは、無意味な数字や文字の羅列は覚えにくい。意味のある並びであればあるほど覚えやすくなる。
無意味な年号やらは語呂合わせで覚える、というのはよくある話だ。
歴史を覚えるのなら、単なるイベントの羅列、ではなくて、それぞれの関わりを理解して、大きな物語として把握することで、より覚えやすくなる。


猫耳ドジっ娘メイドAがいた場合、単に記号として「猫耳+メイド+ドジっ娘」をポンと出されても、印象は薄い。すぐ忘れてしまう。
ストーリーの中で、ドジっ娘メイドがドジしてゆくお話があることで、より印象に残りやすくなる。


「複数の記号が意味を持って連関した状態」とは、要は、お話、物語、ストーリーなわけだ。


作品を広める重要な手段は、物語である、ということが分かる。

連続的刺激

記憶の仕組みとしてもう一つ分かっていることは、最初は短期記憶として貯蔵され、何度もそれを引き出す内に、長期記憶として保存される、というのがある。


猫耳ドジっ娘メイドの話をするのなら、ストーリーを1話だけ見るのなら、短期記憶で終わりやすい。定期的に何度も見れば、それが長期記憶になってゆく、というわけだ。


広告などでは、露出回数を増やすのが基本的な方針としてあり、効果が確認されている。TVアニメなり、連載小説・マンガなりも、同じ方法論だ。


作品を広める重要な手段としての物語は、長さ・回数があったほうがいい、ということがわかる。

構造化

さて、猫耳ドジっ娘メイドを売り出すのであれば、物語にして、それを何話も定期的に出してゆけばいい、ということはわかった。


では、猫耳ドジっ娘メイドのアニメAと、アニメBが、毎週放映されている場合、どちらがより多くの観客を掴めるか?


もちろん様々な要素が絡むわけだが、記憶強度として考えるならば、連関が多いほう、ということになる。アニメのある部分を見て、他の部分との連関を想起させる……2話を見ると1話を思い出し、全部見ると始めから見直したくなるような作品こそが、記憶強度、印象が大きくなるといえよう。


プロットで言うなら、伏線が巧妙な作品だ。
観客は、色々な手がかりを注意し、しっかり記憶しながら、見ているだろう。
伏線が解決された時は、「なるほど、こことここがつながっていたのか!」と、過去の記憶と現在とを連関させることで、強い印象を受けるだろう。


キャラクターで言うならば、成長・変化だ。
あるキャラクターが、様々なドラマを経て変化してゆくことで、過去と現在を連関して記憶する。
弱虫だった猫耳ドジっ娘メイドが、艱難辛苦の末、ご主人様を守って立つ勇気を見せた時にこそ、強い印象を受けるというわけだ。


設定で言うならば、必然性だ。
猫耳ドジっ娘メイドは、なぜ、猫耳でドジでメイドなのか?
この世界には、なぜ猫耳がいるのか。この世界のメイドとはどういうものなのか。
彼女がそうなるに至った過去のお話や世界の話は、ばらばらの記号を連関させる。


ドラマで言うならば起承転結だ。
状況があり、それが変化し、盛り上がって、オチがつく。
1話の中で、それがあることで、1話全体の構造が記憶される。
全話の中で、それがあることで、1話から最終話まで全体の構造が記憶される。



他にも大変に色々あるだろうが、なんとなくわかっただろうか?
連関性の高いスト−リーというのが、いわゆる「よくできた物語」と呼ばれるものだ。
登場する要素が、様々なレベルで相互に結びつくことで、各部分を見る時に、全体が想起され、また他の部分が想起される、というわけだ。


作品を広める重要な手段としての連続する物語は、構造化されている「出来の良い物語」であったほうがいい、ということが分かる。

テーマと記憶強度

さてさて、では、売れ線の記号で、連続性のある物語で、構造がよく出来た物語同士の場合は、どちらが印象に残るか?


「よく出来た物語」というのは、つまり、作品を鑑賞している時に、どれだけ記憶が刺激されるか、だ。


次のステップとして、作品を鑑賞していない時も、記憶が刺激される、というものが考えられる。


作品を見てない時に、作品を思い出すのは、どういう時か? そこで「テーマ」というものが生きてくる。
作品の内容が、現実の生活に共通するものがあればあるほど、現実の生活の中で、作品を思い出しやすくなるわけだ。


具体例でゆこう。少年のアイデンティティ発見がテーマだとしよう。
テーマとキャラクターは連関すべきなので、自分は誰で、何になりたいのかを悩む少年が主人公だ。
現実の中で、自分が誰で何になりたいのかを悩む若者は多いだろう。そうした時、その若者は、作品を思い出す。


例えば「逃げちゃだめだ」だったり「姉ちゃん明日って今さ!」だったり、「おまえを信じる俺を信じろ」だったり、そうした言葉やシーンが心に残るのは、それらのテーマが、自分と深く関わっているからだ。


こうしたテーマは沢山ある。
戦争や民族紛争がテーマの作品であれば、ニュースを見た時、想起するだろう。
恋愛物が強い人気を誇るのも、恋愛というテーマがたいていの人にとって重要だからだ。


ストーリーのテーマが現実の問題と連関することで、直接鑑賞している時以外にも、記憶が刺激され、それによって印象が強くなる、というわけだ。


現実と通底するテーマを設定することで、物語の印象はより強くなる。

良い物語

以上をまとめると、強い印象を与える記号というのは、物語があり、よくできた構造をしており、かつそれが現実と通底するテーマがある、ということになった。


あくまで、記号を、猫耳ドジっ娘メイドを、より大勢に売るためだけを考えた場合でも、物語とテーマが重要だね、という話になったわけだ。

コストベネフィットと多様性

さてさて、では、売れ線の記号で、露出が多く、物語の構造がしっかりしていて、かつ普遍的なテーマを備えている作品なら必ず売れるのか?


もちろん断言はできないが、そこまで条件揃えば、かなりの確率で結構売れる、と、俺は思う。


一方で、そうした緊密な物語が無くても、売れている作品は多々ある。なぜ、そうした作品が出てくるか?
それについては、コストベネフィットの問題で説明できるだろう。


緊密な物語、というのは、コストが高いのだ。
しっかりした構造を考えるのは時間、手間がかかる。また考えた構造を、きっちり描ききるのも、簡単ではない。
作るのが大変で、失敗の可能性も大きいハイリスク・ハイリターンな手法なのだ。
伏線を綿密に張った面白いドラマが、途中で失速したり、風呂敷を畳みきれなかったりして駄作になる、というのは、実際に、よくある話だ。


逆にいうなら、同じだけのコストを使うのなら、構造をゆるやかにすることで、量を増やし、露出を大きくすることもできる。それはそれで有効な戦術だ。


コストベネフィットを考慮した場合、ローリスクローリターンや、ハイリスクハイリターン、様々なニッチ狙い等の戦術が現れ、単純に物語が優れている作品のみが生き残る、とは言えなくなる。

まとめ

どれだけ売れ線の記号があっても、記号単体で享受される期間は短い。
なぜならば、記号だけで売れるなら、当然、記号のコピーが増えて、競争が生じるからだ。
競争の中で印象づける重要な手段として、現実と共通するテーマを持ち構造化された物語が存在する。
一方で、よく練った物語を作るのはコストが高いので、成功する作品の中でも、物語性をどこまで練り込むかについては、様々な多様性が生まれる。

コンテンツとアーキテクチャの分析──やる夫スレの場合

orzさんとの話し合いの中で、コンテンツとアーキテクチャ双方の分析が重要である、という話が出てきた。全くその通りであると思う。
というわけで、最近、思っていた、やる夫スレの個人的分析。

原則

大きく売れた/話題になった作品は、なんらかの形で、ぬきんでたものがある、というのが私の考えだ。まぁ、常識的な話であると思う。


誰しも、自分の作品が評判になってほしいと思っている一方、作品を鑑賞する人間の時間は有限であることから、話題作、と言えるものは、無限に増えることはできない。
よって、そこに競争原理が働く。


その競争原理の中から抜け出てきた作品には、抜け出たなりの理由があるだろう、ということだ。
消費者と、その消費者にあったアーキテクチャと、そのアーキテクチャを生かすコンテンツの3つがそろった時、それは抜け出る。

やる夫スレの場合

やる夫スレというのは、AAを使った、短篇/長編シリーズの総称である。


登場人物は、基本的に、アスキーアートのコピペや改造で作られており、多くは、人気漫画・アニメ等のキャラクターである(たとえば、ヒロインの多くはローゼンメイデンのキャラである)。


さて、やる夫スレは、AAで出来ている。
AAは描き下ろしのイラストなりと単体で比較した場合、まぁ質は劣ると言ってもいいだろう。


ではなぜ、劣った質のAAによる物語が、これだけ大きく広がって反響を生んだのか、という点だ。


なぜ、やる夫スレは受けたのか。言い替えるなら、やる夫スレというコンテンツの質は、アーキテクチャ、客層に対して、どのような特性を持つ必要があるのか?

ふたば☆ちゃんねる

やる夫スレのアーキテクチャは、2ちゃんねる型のスレッド掲示板である。
ちょうどいい比較対象として、ふたば☆ちゃんねるが、存在する。似たようなアーキテクチャで、こちらは画像投稿が中心である。
AAが画像に比べて質で劣ることだけを問題とするなら、ふたば>>>やる夫スレとなるはずである*1
逆に言うと、やる夫スレと、ふたばが共存しているということは、やる夫スレ側にAAを使うなんらかのメリットがある、と、考えても良いだろう。

ネット掲示板というアーキテクチャ

ネット掲示板は、誰もが参加できるというその性質上、玉石混淆である。
個々の作品の完成度を平均値としてのみみた場合、商業等の完成されたコンテンツに比べて劣る場合が多いとは言える(もちろん個々の作品の中に、商業レベルを遙かに超えてる人は存在する)。


それでもネット掲示板に心を寄せる理由は、コミュニティとして自分もそこに参加している感覚があるからだろう。「祭」と呼ばれるものだ。
つまり、作り手と受け手の距離が近い、時には同一であることが、ネット掲示板の有利な点だ。


さて、ふたばと、やる夫スレを見た場合、ふたばのイラストは単発が多い。連作大河物語の傑作的なものは存在するが(仮面ライダーになりたかった戦闘員等)、やる夫スレに比べれば、数は少ないと言っていいだろう。
一方で、やる夫スレの場合は、最初は短いものが多かったが、段々と、大河長編的な作品が生まれる方向に変化していった。


なぜか?
大河長編をマンガなりイラストなりで一から描くには、時間と手間と才能が必要だからだ。
数が少なく、投稿に間が空くということは、ライブ感、参加感覚を出しにくいということでもある。
故に、ふたばで起きる祭は、特定テーマ、ネタに関する単発イラストの集積、リレーという形になることが多い。イラスト一枚ごとで完結しつつ、ゆるやかにつながっているという形だ。


やる夫型AA物語、つまり、既存のAAのコピペをメインとして作る物語の場合は*2、最大の利点として「短い時間で作れる」というのが挙げられる。また、イラストや漫画に比べれば、作るだけなら作りやすい、という点がある。


やる夫スレの中には、ライブで反応を見て、読者の意見を反映しながら、物語を紡ぐ作者もいる。ある程度書きためてから投下する場合も多いが、これにせよ、読者の意見は大変に反映しやすい。


つまり、コミュニティ感覚が重要であるネット掲示板というアーキテクチャにおいて、製作スピードの必要性が、絵のクオリティよりも優先順位が高いため、AAという表現形態が選ばれた、と、いえるだろう。
そして、その利点は、大河物語を描く時に向いている。


1.ネット掲示板では、コミュニティ感覚・祭が重要。
2.祭を起こすためには、大勢の参加者が、短い時間で、互いのネタ・発言を反映しあうことが重要。
3.AAを使うことで、上記2つを満たす、大河絵物語を作ることが可能となった。

キャラコピペ

ネット掲示板アーキテクチャの特徴のもう一つとして、短時間で客を掴む必要がある、というのがある。ちょっとでも、あきられたら、スレを閉じられておしまい、だからだ。


大抵の娯楽作品に共通する特徴だが、ネット掲示板でも、そこが重要だ。
マンガやアニメの1話目の大切さは、よく言われる話である。
短い中に、キャラクターの立ち位置、世界のありよう、ドラマの形を詰め込んで、客に理解してもらうために、作者は工夫をこらすわけだ。
謎めいた世界観でも、深い事情があるキャラクターでも構わないが、1話が終わった時点で、どういうキャラが何のために頑張るのかが、ある程度見えないと、客は、そこで放り出す。


やる夫スレのAAは、この方向にも進化している。
様々な作品からAAを借りてくることの利点は、登場した瞬間に、立ち位置が分かる、ということだ。
やる夫がいれば、ああ、主人公だろう、と、分かる。
やらない夫がいれば、ああ、相棒なのだろう、と、分かる。
翠星石がいれば、ああ、ツンデレで幼なじみなのだろう、と、分かる。
こなたがいれば、ああ、女性の友人なのだろう、と、分かる。
もちろん基本を前提として、様々な崩しがあるが、キャラ絵が出た瞬間に、「こいつは、こういう立ち位置」というのが、わかりやすく伝わってくるのは、AAコピペならではだろう。


逆説的に、立ち位置さえ分かれば、性格を厳密に守る必要はない。


「きれいな誠」とされるキャラクターがある。
エロゲ、School Daysの主人公、伊藤誠は、西園寺世界桂言葉との、ドロドロの三角関係を繰り広げるキャラクターである。
ゲームにおいては、伊藤誠の性格は、ある程度プレイヤーの選択に任されているため解釈の余地があるが、全体的な印象や、また、アニメ版での性格描写等から、「伊藤誠=女にだらしない最低の人間」というテンプレが生まれた。
一方で、それを逆転し、善人でいい人として誠を登場させる「きれいな誠」もやる夫スレにおいては活躍している。


「きれいな誠」の登場経過については、もちろん、既存のテンプレをわざとひっくり返す面白さ等もあったと思う。ただ、それだけでは、単発ネタで終わってしまうだろう。
「誠」の設定が重要なわけではない──それは無視される
「誠」の性格が重要なわけではない──それは反転される
重要なのは「誠」の立ち位置だ。


多くの場合、「誠」が登場する時は、世界、言葉も登場する。この二人でなくても、女性キャラは登場する。
つまり「誠」の立ち位置は、「女性問題に関わる」というものであり、それを読者に伝えるのが「誠」AAの機能というわけだ。
それさえ読者に伝わるのなら、関わり方が、鬼畜かヘタレか善人かは、スレごとに独自性があって良い。


似たような話で、蒼の子……蒼星石がある。やる夫スレ(※あるいはローゼンSS一般)における蒼星石というキャラクターは、原作からの性格のズレが大きく、またスレッドごとに解釈が異なる場合が多い。
これも、蒼星石の立ち位置を考えれば理解できる。


蒼星石の立ち位置は、「異色ヒロイン」だ。
蒼星石が出てくると、読者はヒロインを予感する。
一方で、翠星石やかがみ等の、正統派なヒロインとは、ちょっと違った性格、視点を提供することも期待する。


その「ちょっと違った視点」が、「クールだけど実は一途」であったり「超変態」になったりするのは、これもスレごとの自由、工夫というわけだ。


やる夫スレにおいては、AAの元ネタは、多くの場合、原作への期待や愛を反映するといった意味での二次創作、ではない*3
それは、まず、キャラクターの立ち位置を示すことで、短時間で、読者を引き込むために発展したギミックなのだ。


これは、やる夫スレのキャラが空疎であることを意味しない。
娯楽作品の多くにおいて共通する手法だが、キャラクターの厚みを補うには時間がかかるが、時間をかけて説明していると、読者が逃げる。だから、まず、短時間で立ち位置だけ伝える、という話だ。お客を掴んだら、そこからじっくりと、キャラクターを膨らませてゆけばいい。


先に書いた「きれいな誠」や「変態な蒼の子」の例は、やる夫スレの作者達が、原作のキャラクターの性格に囚われず、物語の中で自力でキャラクターを膨らませる努力をした結果である、とも言えるだろう。


立ち位置を示すことが重要という意味で、仮面劇の仮面に相当するものと言えるかもしれない。仮面で立ち位置をわかってもらって、仮面をかぶった役者の演技で深みをつけてゆくわけだ。


1.ネット掲示板/娯楽作品では、短い時間で、客を掴むことが必要。
2.AAのキャラコピペは、客を掴むために、それぞれのキャラの立ち位置を示す役割がある。
3.逆に言えば立ち位置以外は、性格も設定も固定されない。
4.立ち位置を伝え、客を掴むことで、キャラクターをじっくり描写する余裕が生まれる。その結果、キャラの性格は、原作から離脱した作者オリジナルのものが生まれ、受容されてゆく。

いやほかにもたくさんあるけど

以上、駆け足に、やる夫スレのアーキテクチャとコンテンツについて目についた点を分析した。まだ全然足りてないのは言うまでもない。


やる夫スレのアーキテクチャネット掲示板であり、参加感覚・ライブ感覚がキーであって、AAというアーキテクチャは、それを生かすために、長編物語というコンテンツが生まれるに至った*4と説明した。


AAというアーキテクチャについては、素早い投下・対応ができることと、圧縮情報として、キャラの立ち位置を短時間で伝えられることの2点を挙げた。


話の都合上、AAはイラストに比べて画像としては劣るという点を強調したが、出来のいいAAには、AAでしか出せない味というのもあり、画像としてのAAんも良さも存在すると思う。そのへんをうまく言語化できてないのは、こちらの力不足であり、それ以外ではない。
他にも、AAの良さは、沢山あるし、良いやる夫作品は、そうした良さをぞんぶんに生かしているだろう。AA自体の進化についても書くべきことはたくさんある。
「長編物語」と書いたが、やる夫スレに合う長編物語というのは、どういうものか、という話もある。
また、今書いている最中にも、私が考える既存のやる夫スレモデルを越える新作が生まれつつあるだろう。


そうした点については、またネタがまとまったら書こうと思う。上記は、見えた範囲の分析であって、全体に対する批評ではない。

*1:乱暴な話だけど、一要素のみ比較した場合ね

*2:むかしの2ちゃんねるのAA物語は、キャラはコピペでも一画面ずつ、職人が構成しているものが多かったと記憶している。今の、やる夫型の物語は、ノベルゲームの「立ち絵+背景」に近い形と言えるかもしれない。その中で競争が生まれて進化する内に、AAの改造や巧みな画面構成も評価されてゆく傾向にある。ノベルゲームが「立ち絵+背景」から進化していったように

*3:もちろん、特定のキャラが好きだから、そのキャラを活躍させる、やる夫スレや、AAを作る人も存在する。

*4:短篇はどうでもいいという話ではない。気楽に参加できる短篇や、練りに練り込まれた珠玉の短篇もある一方で、面白い長編がぼんぼん投下されている、というのが、全体の熱にとって重要だろう。

これわやっぱりひどい

批評の批評と建設的行為

さてさて批評の批評は、もっと非建設的では? というコメントをいただいた。
基本的に、その通りで、前回のエントリは、かっとなって書いたものでは、ある。


望月の批判が仮に正しいとしても、何もしないで文句を言うよりも、(たとえ未熟だとしても)何かを積み上げることのほうが、世の中では評価されてしかるべきである。


ということは分かっているつもりではありつつ、それでも我慢できないことも、ある。

知識を矮小化する批評

批評についての様々な立場はありうるが、基本は、知識を拡げてゆくことだと思われる。
ばらばらの情報を整理し、枠の中に秩序立てる。あるいは逆に、既存の秩序にあてはまらないものを見つける。違う視線を当てることで、意味を見いだす。
そのようにして、知識を増やすこと、考えさせることが批評の大きな意義と言っても良いだろう。


一方で、特定の面に批評するということは、それ以外の面を捨象するということでもある。
それ自体は悪いことではなく、論を立てるに当たっては必至なわけだが、そこが悪い方に働くと「考えさせない批評」が生まれる。


ある物の豊かさを発見するのではなく、既存の批評枠にいい加減に結びつけて、「わかったつもりになる」というパターンだ。

オタクの身勝手

先に書いたとおり、何かを批評するということは、何かを捨象するということだ。そして、それは必要なことである。
故に、たとえば、批評家がアニメについて語った時に、アニメオタクが「○○を無視するな」というのは、それなりの身勝手さを伴う。何かを捨象すること、それ自体にケチをつけていては、いくらでもケチがつけられるし、それでは、どんな論も書きようがないからだ。


この日記の記事においても、そうしたオタクの身勝手さに基づいた部分は、それなりに、あることだろう。
その上で、望月自身は、なるべくそうならないように心がけていた点がある。


一つは、「○○を無視するな」が捨象される部分ではなく、本論に関わることである時、だ。
事実があって、それをつなぐ論がある。論がまさに対象としている事実について調べが甘い時は、「○○を無視するな」と言って良いだろう。


その例は、この日記で幾つもあげているつもりであるが、たとえば、東浩紀が、「動物化するポストモダン」において、オタクの嗜好が(ひいては日本の社会全体が)データベース化していることをもって、でじこを代表的なキャラとして引き合いに出しながら、でじこに関する事実が、論と矛盾する形で間違っている場合などだ。
http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20030913/1063343100

考えないための批評

さて、前項で書いた「わかったつもりになる」「考えさせない」批評であるが、これは通常は、読者側の問題である。
一個の批評は一面についてしか語らない。それだけ読んで、わかったつもりになるからいけないのであって、それ自体は批評者の責任ではない。


だが、批評者が、あからさまに事実を軽視する時、それは批評者の責任ともなる。故意にそれを行う場合であれば、責任はさらに大きくなる。


前回の記事で、かっとなったのは、そこだ。


「業界」について何かを語りながら、「業界」に関して、なんらの調査を行っていない。
「未来」について何かを語りながら、「現在」について、なんらの調査を行っていない。
「貧しさ」について語りながら、「今そこにあるゲーム」について、なんら語っていない。
セカイ系」やら「伝奇系」やらというジャンルワードを振りかざすだけで、なんら内容がない。
そのくせに「貧しさ」についてだけ語る。


彼はこう書いている。
>「なので僕はもうめんどくさいので、いわゆるシナリオに重点が置かれている(ように見える)ノベルゲーをエロゲーと呼んでます」
ムチャクチャである。エロゲーエロゲーであって「シナリオに重点が置かれているノベルゲー」ではない。「シナリオ重視のエロゲ」でも何でも好きに呼べばいいだろうが、その用語法は有り得ない。
推理小説を「私は小説と呼ぶ」とか、野球を「私はスポーツと呼ぶ」とか、それと同等で有り得ない。


で、仮に「シナリオに重点が置かれているノベルゲー」について語りたいのでもいいが、「業界」話には全くなっていない。


業界とは、作品があって購買層がいて流通があるのが前提だ。
どんな作品が誰にどれだけ売れているか、というのが業界の話をする時の根本にあるが、彼は全くそれについて無頓着だ。


それは、サブジャンルであるシナリオ重視系を、単純にエロゲと言う無神経さにも現れているし、また彼が「ぶっちゃけ今のエロゲ業界はライターでいえば5人くらいで回っている(象徴的な意味では)」と語るライターにも現れている。


奈須きのこにせよ、田中ロミオにせよ、寡作であり、最後の作品は、4〜5年前である。丸戸は堅実だが、それにしても最後の作品は2007年年末。
私は彼らのゲームが大好きだし価値があると思うが、「業界」について語るのであれば、彼らを中心に回ってるとは言い難い(さもなくば、2008年以降の業界は存在していないことになる)。
セカイ系」や「伝奇系」の興隆について語りつつも、それらのプレイヤー層、売り上げ、数の推移については何も書かれていない。単に「自分の目にとまった範囲」の感想でしかない。


コメント欄では、スパナさんには「相手の理論を補完して見てそこから溢れる物を提示」したらどうかと言われた。東浩紀の議論については、少なくとも彼の理論を私なりに理解しようとはしたが、この日記に関して言うならば、補完するような内容は全く見当たらない。

おまえはどうなんだ

望月自身、じゃぁ、エロゲ業界について、大局的に語れと言われたら、それをするほどのデータは、今のところ持ち合わせていない。
なんだが、そうである故に、業界について大所高所から語ることはしないようにしている。
「このゲームが面白い」とか「この作者は好きだ」とか、その程度の話を、別のところでしている。


坂上秋成氏のやってるのも、そういうことだ。「ノベル重視のエロゲ=ビジュアルノベル*1」の「ジャンル」について、自分の見た範囲での感想を述べている。そこに自覚的であれば問題ない。


ただ、感想レベルの話を振り回して「業界」やら「市場」やらを語り、挙げ句の果てに「ライターでいえば5人くらいで回っている」というのに至っては、「出直して来い」の一言で済ましておく。

これわひどい

http://d.hatena.ne.jp/syusei-sakagami/20091209/1260385560


プロ文芸批評氏による「エロゲーの未来について真剣に考える」と題されたエントリ。あんまり、ひどかったので、発作的に書く。


好意的に読むなら、「昔は、面白いエロゲがあった。セカイ系とかループとか好き。流行った結果、沢山でて食傷したけど、また、ああいうエロゲで面白いやつがでないかな」という感想文。


なんというか、これだけで、この人の考える「エロゲ」というのが、狭い範囲であることが分かる。別に、趣味が狭いのは構わない。感想としてはありだろう。
ただ、その狭さのまま、プロ批評家が、ジャンルを批評して断罪するのは、犯罪的怠慢である。


最悪なのは、この人が無能ということではなく(無能なのだが)、無知と偏見を広めること、それ自体で金を取ってる、ということだ。

ぶっちゃけ今のエロゲ業界はライターでいえば5人くらいで回っている(象徴的な意味では)。奈須きのこ田中ロミオ丸戸史明を押さえとけば大体分かる。

5人だけで回ってるわけもない。
(こういう人たちの)エロゲ批評が、その5人だけで回ってるに過ぎない。
分かるわけもない。「分かった気がする」だけだ。


奈須と田中と丸戸あたりを適当に使い、あとはアリバイ的に、その時々の尖った人を入れれば、「それっぽい話」は、いくらでも量産できる。
エロゲをまともに遊んでなくても、「丸戸はいいよね。他は、最近、あんまりぱっとしないね」とか言っておけば、知ったかぶりはできる。


「それっぽい話」をしたい人、「知ったかぶり」をしたい人はいつだっていて、彼らに向けて、バズワードを売って儲けるのが、一つの商売として成立するのだろう。


そうやって、自分達だけのジャーゴンで、批評価値を作り、外部に向けて盛大に「今のエロゲは、セカイ系でループ構造がポストモダンゼロ年代だからすごいんですよ!」と言ってまわって、勘違いした人を増やす。
そうやって大ヒット作の説得力に、そのまま乗っかる形で、批評を回す。


結局、彼らは、自分で価値を作ることができない。
大ヒットした作品に、後付けで適当なジャーゴンをくっつけて、それをセットで売る。
大ヒットが去った時には、「この業界はもう腐った」と言って、また別の売れてるジャンルに移動する。


セカイ系やループはテンプレ化して、今のエロゲは停滞しているそうだ。
なんと空疎な……どこまでも空疎なマッチポンプ
否。マッチポンプですらない焼き畑農業。


貧しさという言葉の意味を、じっくりと噛みしめている。