コンテンツとアーキテクチャの分析──やる夫スレの場合

orzさんとの話し合いの中で、コンテンツとアーキテクチャ双方の分析が重要である、という話が出てきた。全くその通りであると思う。
というわけで、最近、思っていた、やる夫スレの個人的分析。

原則

大きく売れた/話題になった作品は、なんらかの形で、ぬきんでたものがある、というのが私の考えだ。まぁ、常識的な話であると思う。


誰しも、自分の作品が評判になってほしいと思っている一方、作品を鑑賞する人間の時間は有限であることから、話題作、と言えるものは、無限に増えることはできない。
よって、そこに競争原理が働く。


その競争原理の中から抜け出てきた作品には、抜け出たなりの理由があるだろう、ということだ。
消費者と、その消費者にあったアーキテクチャと、そのアーキテクチャを生かすコンテンツの3つがそろった時、それは抜け出る。

やる夫スレの場合

やる夫スレというのは、AAを使った、短篇/長編シリーズの総称である。


登場人物は、基本的に、アスキーアートのコピペや改造で作られており、多くは、人気漫画・アニメ等のキャラクターである(たとえば、ヒロインの多くはローゼンメイデンのキャラである)。


さて、やる夫スレは、AAで出来ている。
AAは描き下ろしのイラストなりと単体で比較した場合、まぁ質は劣ると言ってもいいだろう。


ではなぜ、劣った質のAAによる物語が、これだけ大きく広がって反響を生んだのか、という点だ。


なぜ、やる夫スレは受けたのか。言い替えるなら、やる夫スレというコンテンツの質は、アーキテクチャ、客層に対して、どのような特性を持つ必要があるのか?

ふたば☆ちゃんねる

やる夫スレのアーキテクチャは、2ちゃんねる型のスレッド掲示板である。
ちょうどいい比較対象として、ふたば☆ちゃんねるが、存在する。似たようなアーキテクチャで、こちらは画像投稿が中心である。
AAが画像に比べて質で劣ることだけを問題とするなら、ふたば>>>やる夫スレとなるはずである*1
逆に言うと、やる夫スレと、ふたばが共存しているということは、やる夫スレ側にAAを使うなんらかのメリットがある、と、考えても良いだろう。

ネット掲示板というアーキテクチャ

ネット掲示板は、誰もが参加できるというその性質上、玉石混淆である。
個々の作品の完成度を平均値としてのみみた場合、商業等の完成されたコンテンツに比べて劣る場合が多いとは言える(もちろん個々の作品の中に、商業レベルを遙かに超えてる人は存在する)。


それでもネット掲示板に心を寄せる理由は、コミュニティとして自分もそこに参加している感覚があるからだろう。「祭」と呼ばれるものだ。
つまり、作り手と受け手の距離が近い、時には同一であることが、ネット掲示板の有利な点だ。


さて、ふたばと、やる夫スレを見た場合、ふたばのイラストは単発が多い。連作大河物語の傑作的なものは存在するが(仮面ライダーになりたかった戦闘員等)、やる夫スレに比べれば、数は少ないと言っていいだろう。
一方で、やる夫スレの場合は、最初は短いものが多かったが、段々と、大河長編的な作品が生まれる方向に変化していった。


なぜか?
大河長編をマンガなりイラストなりで一から描くには、時間と手間と才能が必要だからだ。
数が少なく、投稿に間が空くということは、ライブ感、参加感覚を出しにくいということでもある。
故に、ふたばで起きる祭は、特定テーマ、ネタに関する単発イラストの集積、リレーという形になることが多い。イラスト一枚ごとで完結しつつ、ゆるやかにつながっているという形だ。


やる夫型AA物語、つまり、既存のAAのコピペをメインとして作る物語の場合は*2、最大の利点として「短い時間で作れる」というのが挙げられる。また、イラストや漫画に比べれば、作るだけなら作りやすい、という点がある。


やる夫スレの中には、ライブで反応を見て、読者の意見を反映しながら、物語を紡ぐ作者もいる。ある程度書きためてから投下する場合も多いが、これにせよ、読者の意見は大変に反映しやすい。


つまり、コミュニティ感覚が重要であるネット掲示板というアーキテクチャにおいて、製作スピードの必要性が、絵のクオリティよりも優先順位が高いため、AAという表現形態が選ばれた、と、いえるだろう。
そして、その利点は、大河物語を描く時に向いている。


1.ネット掲示板では、コミュニティ感覚・祭が重要。
2.祭を起こすためには、大勢の参加者が、短い時間で、互いのネタ・発言を反映しあうことが重要。
3.AAを使うことで、上記2つを満たす、大河絵物語を作ることが可能となった。

キャラコピペ

ネット掲示板アーキテクチャの特徴のもう一つとして、短時間で客を掴む必要がある、というのがある。ちょっとでも、あきられたら、スレを閉じられておしまい、だからだ。


大抵の娯楽作品に共通する特徴だが、ネット掲示板でも、そこが重要だ。
マンガやアニメの1話目の大切さは、よく言われる話である。
短い中に、キャラクターの立ち位置、世界のありよう、ドラマの形を詰め込んで、客に理解してもらうために、作者は工夫をこらすわけだ。
謎めいた世界観でも、深い事情があるキャラクターでも構わないが、1話が終わった時点で、どういうキャラが何のために頑張るのかが、ある程度見えないと、客は、そこで放り出す。


やる夫スレのAAは、この方向にも進化している。
様々な作品からAAを借りてくることの利点は、登場した瞬間に、立ち位置が分かる、ということだ。
やる夫がいれば、ああ、主人公だろう、と、分かる。
やらない夫がいれば、ああ、相棒なのだろう、と、分かる。
翠星石がいれば、ああ、ツンデレで幼なじみなのだろう、と、分かる。
こなたがいれば、ああ、女性の友人なのだろう、と、分かる。
もちろん基本を前提として、様々な崩しがあるが、キャラ絵が出た瞬間に、「こいつは、こういう立ち位置」というのが、わかりやすく伝わってくるのは、AAコピペならではだろう。


逆説的に、立ち位置さえ分かれば、性格を厳密に守る必要はない。


「きれいな誠」とされるキャラクターがある。
エロゲ、School Daysの主人公、伊藤誠は、西園寺世界桂言葉との、ドロドロの三角関係を繰り広げるキャラクターである。
ゲームにおいては、伊藤誠の性格は、ある程度プレイヤーの選択に任されているため解釈の余地があるが、全体的な印象や、また、アニメ版での性格描写等から、「伊藤誠=女にだらしない最低の人間」というテンプレが生まれた。
一方で、それを逆転し、善人でいい人として誠を登場させる「きれいな誠」もやる夫スレにおいては活躍している。


「きれいな誠」の登場経過については、もちろん、既存のテンプレをわざとひっくり返す面白さ等もあったと思う。ただ、それだけでは、単発ネタで終わってしまうだろう。
「誠」の設定が重要なわけではない──それは無視される
「誠」の性格が重要なわけではない──それは反転される
重要なのは「誠」の立ち位置だ。


多くの場合、「誠」が登場する時は、世界、言葉も登場する。この二人でなくても、女性キャラは登場する。
つまり「誠」の立ち位置は、「女性問題に関わる」というものであり、それを読者に伝えるのが「誠」AAの機能というわけだ。
それさえ読者に伝わるのなら、関わり方が、鬼畜かヘタレか善人かは、スレごとに独自性があって良い。


似たような話で、蒼の子……蒼星石がある。やる夫スレ(※あるいはローゼンSS一般)における蒼星石というキャラクターは、原作からの性格のズレが大きく、またスレッドごとに解釈が異なる場合が多い。
これも、蒼星石の立ち位置を考えれば理解できる。


蒼星石の立ち位置は、「異色ヒロイン」だ。
蒼星石が出てくると、読者はヒロインを予感する。
一方で、翠星石やかがみ等の、正統派なヒロインとは、ちょっと違った性格、視点を提供することも期待する。


その「ちょっと違った視点」が、「クールだけど実は一途」であったり「超変態」になったりするのは、これもスレごとの自由、工夫というわけだ。


やる夫スレにおいては、AAの元ネタは、多くの場合、原作への期待や愛を反映するといった意味での二次創作、ではない*3
それは、まず、キャラクターの立ち位置を示すことで、短時間で、読者を引き込むために発展したギミックなのだ。


これは、やる夫スレのキャラが空疎であることを意味しない。
娯楽作品の多くにおいて共通する手法だが、キャラクターの厚みを補うには時間がかかるが、時間をかけて説明していると、読者が逃げる。だから、まず、短時間で立ち位置だけ伝える、という話だ。お客を掴んだら、そこからじっくりと、キャラクターを膨らませてゆけばいい。


先に書いた「きれいな誠」や「変態な蒼の子」の例は、やる夫スレの作者達が、原作のキャラクターの性格に囚われず、物語の中で自力でキャラクターを膨らませる努力をした結果である、とも言えるだろう。


立ち位置を示すことが重要という意味で、仮面劇の仮面に相当するものと言えるかもしれない。仮面で立ち位置をわかってもらって、仮面をかぶった役者の演技で深みをつけてゆくわけだ。


1.ネット掲示板/娯楽作品では、短い時間で、客を掴むことが必要。
2.AAのキャラコピペは、客を掴むために、それぞれのキャラの立ち位置を示す役割がある。
3.逆に言えば立ち位置以外は、性格も設定も固定されない。
4.立ち位置を伝え、客を掴むことで、キャラクターをじっくり描写する余裕が生まれる。その結果、キャラの性格は、原作から離脱した作者オリジナルのものが生まれ、受容されてゆく。

いやほかにもたくさんあるけど

以上、駆け足に、やる夫スレのアーキテクチャとコンテンツについて目についた点を分析した。まだ全然足りてないのは言うまでもない。


やる夫スレのアーキテクチャネット掲示板であり、参加感覚・ライブ感覚がキーであって、AAというアーキテクチャは、それを生かすために、長編物語というコンテンツが生まれるに至った*4と説明した。


AAというアーキテクチャについては、素早い投下・対応ができることと、圧縮情報として、キャラの立ち位置を短時間で伝えられることの2点を挙げた。


話の都合上、AAはイラストに比べて画像としては劣るという点を強調したが、出来のいいAAには、AAでしか出せない味というのもあり、画像としてのAAんも良さも存在すると思う。そのへんをうまく言語化できてないのは、こちらの力不足であり、それ以外ではない。
他にも、AAの良さは、沢山あるし、良いやる夫作品は、そうした良さをぞんぶんに生かしているだろう。AA自体の進化についても書くべきことはたくさんある。
「長編物語」と書いたが、やる夫スレに合う長編物語というのは、どういうものか、という話もある。
また、今書いている最中にも、私が考える既存のやる夫スレモデルを越える新作が生まれつつあるだろう。


そうした点については、またネタがまとまったら書こうと思う。上記は、見えた範囲の分析であって、全体に対する批評ではない。

*1:乱暴な話だけど、一要素のみ比較した場合ね

*2:むかしの2ちゃんねるのAA物語は、キャラはコピペでも一画面ずつ、職人が構成しているものが多かったと記憶している。今の、やる夫型の物語は、ノベルゲームの「立ち絵+背景」に近い形と言えるかもしれない。その中で競争が生まれて進化する内に、AAの改造や巧みな画面構成も評価されてゆく傾向にある。ノベルゲームが「立ち絵+背景」から進化していったように

*3:もちろん、特定のキャラが好きだから、そのキャラを活躍させる、やる夫スレや、AAを作る人も存在する。

*4:短篇はどうでもいいという話ではない。気楽に参加できる短篇や、練りに練り込まれた珠玉の短篇もある一方で、面白い長編がぼんぼん投下されている、というのが、全体の熱にとって重要だろう。