ファウスト賞と血の交換

 東氏(id:hazuma)の1/21のblogより。

 ファウスト賞の応募作が、現代ファンタジーで、同性愛で、吸血鬼なストーリーが多いとのこと。

血の交換が描かれながら、痛覚が回避される。それは、血のモチーフが、身体性の回復といった主体の問題系(リストカット)ではなく、むしろ、もっと非身体的な情報交換のメタファーとして描かれていることを意味するのだと思います。サイバーパンク以降よく言われていることですが、現在の私たちは、自分たちの身体を、トラウマを刻まれた性的身体であると同時に、さまざまなデータがそこを通り過ぎる結節点のようにも捉えている。いままで純文学では前者のほうが好まれてきましたが、ここで血の交換という流体的なメタファーが力をもってきたのは、若い書き手の関心が後者のほうに移動しつつあるからなのではないか。

 相変わらずだが、東氏は、なぜか、純文学しか比較対照を持たない。ファウスト賞のごとき、オタクを見すえた賞なら、オタク文化のほうの過去を検討すべきだろう。

 結論を先に書いておくと、ここに書いてあるような傾向は、確かに存在すると思うが、「若い書き手の関心が後者のほうに移動しつつある」とは思わない。純文学はどうかしらんが、オタク系、あるいは大衆娯楽のストーリーでは、ずいぶん前からある流れだ。

 「非身体的な情報交換のメタファー」とやらを、もっと分かりやすい日本語に言い換えてみればはっきりする。

 つまり、「吸血」というのは、生々しい暴力や説得力のあるセックスが書けない若者が、うわっつらのミュニケーションを書くのに、ちょうどいいギミックだということ。

 同じことを読者の側から言い換えれば、こうなる。

 「吸血」という行為で、適度に生々しくなく、かつ適度にエロくて、それでいて言葉によらずわかりあえるコミュニケーションを現すのが、読者に受けている。

 それなりに受けていることは確かだと思う。

 「月姫」が、そう。「やおい」も、そう*1。もっと前なら、あれだ。ニュータイプなんかの描写。テレパシーの描写が、なぜだか光の中で裸で抱き合ってしまうような、ああいうやつ。

 要するに「セックスしたいけど、セックスは汚いから、もっとキレイで、精神的で、あとお互いをまるごと受け止めてわかりあえるような、そんなセックスはないかしら」という欲求は、思春期のある種の若者に共通する妄想だろう。ここだけに関して言えば、それこそ、中世からあるといっても過言ではないのではないか。

 言ってみれば、陳腐で、王道。特にファウストは、雑誌カラー的に、そういう読者受けする作品を置いてあるから、そりゃぁ、健全なセックスを書いた作品は届かないだろう。

文学の問題は結局はコミュニケーションの問題であり、そして会話(言葉)を超えたコミュニケーションというと普通は性と暴力しかないのでどうしてもセックスやケンカのシーンが多くなりがちなのですが、ここでもし、純粋な情報交換の身体的表現とでも言うべきものがあるとすれば、その表現ばかりが突出して現れてきてもおかしくはない。セックスは必要ない。むろん生殖の必要もない。私たちの身体は、性的な身体以前に、何よりもまず、血液という情報媒体が満ちた流体的なデータバンクなわけで、ファウスト賞応募作の総体が何となく向かっていたのはそういう世界認識なのではないか。

 やおいの安直な精神分析的解釈は嫌いなのだけど、でも、上のようなことを言うなら、生殖を無視した希薄なセックスを目指す路線のやおいなんかは、まさにそれだし。さっき言ったニュータイプもそう。

 コミック、アニメ、ラノベ。オタク的な世界観では、遙か昔から「会話を越えたコミュニケーション」すなわち「純粋な情報交換の身体的表現とでも言うべきものが、突出して現れ」てますよ。

 10年、いや20年は遅い。

*1:成功している作品の場合、それだけで成功しているわけじゃない、というのはもちろんである