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(前略)僕は、西尾や佐藤、それに年がちょっと離れますが舞城王太郎を加えた『ファウスト』のコアメンバーのほうが、未来の文学を担う作家として有望だと思います。純文学とエンターテインメントの違いなど関係ありません。そして実際、ここ1、2年、佐藤や舞城は文芸誌にも掲載されるようになりました。ようやく才能ある作家が正当に評価される時代が来たのかと思ったものです。
今回の芥川賞作品は、まだ読んでいないが、俺の感覚でも、例えば舞城王太郎は、有望な作家だと思う。純文学とエンターテイメントの違いなど関係ないというのには、大きく同意したい。
よくわからないのは、東氏の「正当に評価される」=「文芸誌に掲載される」という感覚である。文芸誌に掲載されるかどうかなんて、どうでもいいし、そんなものは「正当な評価」でもなんでもない。
正当な評価というのは、舞城王太郎がメフィスト賞を取ったことであり、それが売れたことであり、それが読者や、他の作家の作品に大きな影響を与え続けていることだろう。
「文芸界」が、舞城王太郎を評価しないとすれば、それは「文芸界」が、ますます一般性を失うというだけのことだ。
一般性がないこと自体が悪いわけではない。閉じた集団の意義は、一般とは違った価値観を提示することなのだから。「文芸界」の評価があり、「ファウスト」系読者の評価があり、2chのラノベ板やミス板の評価があり、それぞれに使いようがある。
逆に言うと、「文芸界」という、一個の小集団の評価を、何故にそこまで気にするのかが、俺なんかには分からない。日本文学界マンセーな人なら分かるのだが、東氏は、以下のように述懐しているのだ。
(前略)当時『批評空間』の言説にたっぷり染まっていた僕は、根拠なく、本当にすごい作家は芥川賞なんて取らないんだと信じてました。そして同時に、本当にすごい批評家は文芸誌にも論壇誌にも書かないものだと信じてました。そんな美学はいまだに僕に取り憑いていて、こうやって書いていてもウンザリしますが、とりあえず、東大表象関係でもサブカル関係でも、当時の僕のまわりで芥川賞なんてネタにすらなっていなかったことは事実です。
芥川賞的な権威を一方で否定してみせて、一方で、そこに評価されることを気にする態度は、言うまでもなく矛盾している。
権威に価値を感じないなら無視すればいいし、感じるなら素直に評価すればいい。
権威以外の賞の価値といえば、「宣伝装置」としてのものがある。賞を取れば、本屋に平積みになるし、その効果は大きい。
東氏の愚痴が、「芥川賞のごとき、巨大な宣伝装置が、評価するべき作品を評価しておらず、無駄に回っている」ということなら、耳を傾ける価値もある。
ところが、東氏は、その宣伝装置としての活動すらもこき下ろす。
しかし、今回の騒ぎを見るかぎり、文芸業界はまたもやくだらないスターシステムで延命を図るつもりのようにも見えます。もしそうだとすれば、僕はそれには軽蔑しか感じません。だからネタにもしません。
「中身のない作品を持ってきて、作者の話題性だけで売っている」と言いたいのならわかるが、だったら前提の「中身のない作品」を確定させねばならない。「金原、綿矢は、芥川賞にふさわしくない」と、はっきり言わないと。
それをせずに(読んでないものだから)、東氏は、芥川賞における「スターシステム」という話題作りを「軽蔑」する。
編集は、自分が良いと信じる作家を推すために、恥も外聞もない宣伝攻勢を繰り広げるものだ。倫理的にまずい嘘やら活動やらをしたならともかく、今回みたいに作者の話題性を利用するのは基本中の基本。
それを「くだらないスターシステム」というなら、「ファウスト」や「メフィスト」で、講談社が繰り返し特定の作家を持ち上げるのも、「スターシステム」だろう。
そういう宣伝根性自体を否定して、東氏は、どうしようというのだろう?
これまでの東氏の態度をまとめてみよう。
- 文壇はくだらない。芥川賞に価値なんかない。
- でも、俺の認める作品は、文壇で評価されるべきだ。
- 最近、文芸誌に載るようになってきた。
- でも、芥川賞は取れなかった。
- 芥川賞は、もっと正当な作品を評価すべきだ。
- 芥川賞は、「スターシステム」で宣伝するからよくない。
- 芥川賞を軽蔑する。
1,2とか5,6とか色々矛盾してるけど、こうしてまとめてみると、だいたいの傾向が伺える。
総合すると「この芥川賞は、すっぱいに違いない」というところで良いのかな。作家でもないのに。