二次創作やおいを隠す理由

二次創作やおいについて消極的になる理由について、俺が見た限りでは、以下の3つの理由があります。それぞれについて。

1.自分の読む作品を守るため。
 前に出て騒ぐことにより、元の作品に悪影響を与えてしまうことがある。
 例えば「腐女子が読むもの」という第一印象を与えてしまうことで、他の読者が引いてしまう場合があったり、作者にストレスを与えてしまうことがある。
 その結果、本来、良作だったものが、この世から消え去ってしまうことにつながる。
 それはそれで、通常の読者としても、やおい的な読みをするものとしても困る、という理由。

 つまり、現実的な意味で、読者、作者、作品に益するよう行動する立場。
 これは行動理念としては100%納得できます。

2.隠れているのが好きだから。
 同好の士とひっそり語らっているところに楽しみがあるから。特に目立ちたくも「市民権を獲得」したくもない。

 内面的な理由ですね。内面的な理由であるが故に、色々なニュアンスが人によってあるでしょう。実際にどんなニュアンスがあるのかは、俺は勉強不足でよくわからないというのが正直なところです。
 ともあれ、個人の好きずきですから、俺が文句を言うところではありませんね。

3.元作品に対して失礼だから
 俺が、個人的にひっかかるのが、ここです。

「失礼」という言葉はニュアンスが微妙で、以下の俺の意見も、荒いところがあるとは思います。最初にご了承ください。

 やおい二次創作的な読みが、通常の読み、普通に楽しむ読みとは違う、という点で、そこに一線を画そうとする考え方が、(ひとそれぞれ違った形で)あると思います。

 さて、二次創作を評する言葉として、よく「愛がない」というのがあります。
 「愛がある」作品というのは、元作品を、きちんと読み込んで、キャラクターや設定を把握し、元作品の基本となる理念やテーマ、つまり筋を通すところを通しつつ、自分流の話に組み込むことを意味する、と、思います。
 逆に、「愛がない」作品というのは、元作品の理解が不十分で、当人の単純な妄想の中に、単なる名前・記号として元作品のキャラ等が使われていることを意味する(と思います)。
 やおいや、エロパロは、元作品を丁寧に読み込んだ上であっても、キャラクターを意図的にねじ曲げている部分があるので、ある意味「愛が劣る」ことになる。

 あるいは、二次創作は、作者から作品・キャラクターを「借りて」いるので、作者の意図と違った使い方をすることは、作者へ失礼な行為である、という考え方。

 そういうところで、二次創作やおい的な読み方は、邪道であって本道ではない、と、考えられている方が(ひとそれぞれ違った形で)あるんじゃないかと思います(これは間違っているかもしれません)。

 で、それについてですが、俺は、個人的に、作品の読み方に優劣も邪道も本道もないと思います。どんな読み方をするのも自由。あるいは、使い方と言ってもいい。
 本を買って読むのも枕にするのも、読んだ人間の勝手。

 それと同じ意味で、ある作品のストーリーをそのまま楽しむのでなく、それを素材として使って想像を膨らますこと、想像を形にすること自体は、俺は素晴らしいことだと思っています。それは、やおい二次創作であってもいいし、エロパロであってもいいし、ドリーム小説であってもいい。
 
 その中で、元作品への「愛がある」(=元作品の理念を押さえた)作品も、「愛がない」(=元作品に敬意がない)作品も、(好み、力量は別として)、立場としては一緒だし、どっちも貶められるべきものではない、と、俺は思います(個人の意見ですが)。