いろいろあって、1年半ぶり以上の新記事となる。
いや久々に見たら、あまりに変わっていなくて笑ってしまったので。

美少女ゲームはゲームなのか」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0608/30/news096.html
「インタラクション性よりも、中に描かれているものに対してゲーム性を感じている」
http://plusd.itmedia.co.jp/games/articles/0608/30/news083_2.html

俺も中学くらいの時、とにかくやたら、ゲーム性という言葉を、振り回してイタい議論をしていた。

今になって思えば、そういう文脈の「ゲーム性」というのは、たいてい、狭い意味での戦術性、くらいの意味だったんだが。

戦術性があって面白いゲームもあれば、戦術性と別のところで面白いゲームもある。言葉にすれば、ただそれだけのことだ。

が、「ゲーム性」という言葉のなせる技で、そうした議論はなぜだか「ゲーム性のないゲームはゲームじゃない。だってゲーム性がないんだから」という不毛な話になってゆく。

中学以来、この議論は、アクションゲームとRPGとTRPGと育成シミュとギャルゲとノベルゲームで、約5回ほど出くわした記憶がある。

なんで、戦術性がゲーム性とイコールと見なされるかといえば、要するに「難易度信仰」と「選民思想」である。俺は難しくてフクザツなゲームをやってるからエライ。最近のヌルいゲームやってるヌルゲーマーと一緒にするな、という。

普通のゲーマーであれば、自由度や難易度が行きすぎたクソゲーや、そういう枠でくくれないバカゲー(でも心の名作)に出会うことで、それが一方の極論であることを理解するわけなのだが……。

まぁこれは短いパネルディスカッションの要約記事なので、東氏のサイトを見てみよう。
こちらは、補足としてまともなことが書いてある。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000247.html

ただ僕としては、そこで「みんながゲームだと言っているんだからそれはゲームなんじゃないか」は別に終着点ではなく、そういう状況こそ思考の出発点になるんだよ、と言いたかったわけです。なぜならば、言葉の定義をめぐる論争や齟齬は、一見不毛なように見えて、実は消費者共同体の分化やメディア/市場の変化を反映していることが多いからです。「ゲームとはなにか」に対する回答は無数にあるでしょうが、それは決して「ゲームとはなにか」が空しい問いであることを意味するのではなく、むしろその多様性からユーザーの状況が見えてくる。言葉の闘争は、しばしば文化のダイナミズムの指標になります。

 新しいゲームは、まずマニアックなものとして始まる。小集団の中で刺激を求めるマニアのニーズに応じて、それは先鋭化してゆく。その結果、途中で行き詰まり、消えてしまうことがある。
 消えない場合は、より多くのユーザーを取り込む方向に進化し、結果として「より遊びやすい」「わかりやすい」インターフェースが作られることになる。

 それは例えば、食らい判定1ドットのシューティングであり、盲導犬RPGであり、美少女キャラであり、以下略、以下略である。
 「ゲーム性が薄れた」「ゲーム性がない」という議論が、そのたびに繰り返されてきた、というか蒸し返されて来たのは、最初に書いた通り。

 ノベルゲームのインターフェースが大枠で変化してないのは、それ自体が充分に枯れたインターフェースであるのと*1、そこよりも別のところで差別化したほうが、ユーザーにもメーカーにも良いからだろう(もちろん、安易な差別化の果てには進化の袋小路が待っていることもあるが)。

そういう観点で見ると、ここ10年くらいの美少女ゲームの進化(退化?)は実に興味深いのではないか。そこからは、「ゲーム性」という言葉がもはや単体としての作品の性質を指すものとして使われていない状況が浮かびあがるのではないか。そしてさらに、それを分析してみると、僕たち(これは美少女ゲームのユーザ以外も含めて)がいま直面している物語的想像力の変化やユーザコミュニティの変化が見えてくるのではないか、というのが、僕の言いたいことでした。

 美少女ゲームは、システムで売るよりもシナリオやキャラで売るほうがラクだからそうなった。それだけの話である。

 だいたい古株のゲーマーに言わせてもらえれば、「ゲーム性」が単体としての作品の性質を指すものとして使われていた時期というのは、そもそも存在しない。ゲームとゲーマーは常に切り離せないものなのだ。

 もっとも初期では、ゲーマーとゲームメーカーの境は非常に低く、ゲーム好きはたいてい自分でゲームを作っていた。
 アーケードなら、ゲーセンで、互いの攻略法をわかちあうこと、あるいは隠し合うことは、重要な部分だった。「ゼビウス」や「ドルアーガの塔*2のゲーム性は、当時のゲームセンターの状況、ゲーマーのコミュニティ無しには語れない。格闘ゲームについては言うまでもないだろう。
 ドラクエにしたって、「太陽のほこらってどこー!?」という電話がプレイヤーの間を行き交い、また雑誌記事、漫画のネタとなった。

 現在において、ネットの発達、ネット配信の情報スピード、その他もろもろの理由において、コミュニティの変化、受容、消費の変化が起きた部分はあるだろう。が、それは美少女ゲームに限ったことじゃない。

 美少女ゲームユーザーインターフェースから見える「物語的想像力の変化」について語ることは可能かもしれないが、じゃぁそれって何なの? という肝心な部分が空っぽなんだよなぁ。

というわけで、当日も会場で再三繰り返したのですが、僕のゲーム観はとても狭く、おまけに変わっていて、また自分でもそれはよくわかっているので、そういうものとしてカッコに入れて読むことをお勧めします。そもそも研究とか批評って、そんなものなのです。

 呼ぶほうと取り上げる方も問題だが、呼ばれるほうもどうかと思う。研究や批評が「そんなもの」なのは東浩紀氏だけだと思いたい。

*1:コンシュマーRPGだって、9割は、経験値を貯めてレベルアップでボス戦なわけで、そこのところは進化していない。無論、経験値システムをいじったRPGがあるのと同程度には、ノベルゲームでも様々な試みがなされている

*2:考えてほしい。「ドルアーガの塔」を、当時の歴史背景やユーザコミュニティを無視して、単体としての作品のみで評価した場合のことを。何の伏線もヒントもない宝物の出現方法を延々探す超クソゲーとしか言いようがないだろう。