いわゆる一つのダブスタ

足利事件

今回の冤罪事件、容疑者の苦しみは想像を絶するもので、早急に補償が行われるのは当然だとして、他方、そんな大きな事件の犯人が放置されていることもたいへん深刻な事態です。早いところ、足利女児連続殺人事件(とあえて言いますが)の真犯人が捕まって欲しいものです。
足利事件 - 東浩紀の渦状言論 はてな避難版

この記事だけであれば内容は同感。
だがしかし。

文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。
hirokiazuma.com

東浩紀氏の、この言動を引用するのであれば、上記のニュースも文字情報であり、相対的で弱いもので、すぐひっくりかえりうるものだ。

一方に慰安婦はいたと怒っている人がいて、他方に慰安婦は存在しないと主張している人がいる。ぼくに、というか、たいていの人にわかるのは、そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない。

なるほど冤罪であったかなかったかについて、一般人にとっては「そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない」のではないということになる。

この事件については、『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(小林篤著、草思社)というすぐれたノンフィクションがあるので、興味のあるかたにはこの本をお薦めします。

本については東氏はこのように主張している。

当たり前ですけど、政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間は常に少数です。それなのに、膨大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのなかで、左翼は自分に都合のよい情報をネットで集め、右翼も同じことをする。


ぼくたちがいるのはそういう環境です。そういうなかで、「政治」的な論争だと思われているものの多くは、完全に伝聞情報というか、一群の書籍のうえに組み立てられた解釈の争いにすぎない。そこからは、何ら科学的真理は出てこないし、新しい知見も出てこない。そういうことがすごく多い。

東氏の理解は、『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』という「一冊の書籍のうえに組み立てられた解釈」であって、「何ら科学的真理」はなく「新しい知見」も存在しないということになる。
絶対的真実は問題にしていない - 東浩紀の文章を批評する日記を参照)

共感しやすさ

南京事件慰安婦問題について、「政治性」を強調し、「どうせ素人にはわからない」という面を強調する一方で、足利事件については素直に語る。
それらの違いはなんだろうか?


特定の事件に対して、選択的に政治性を強調するのは、それ自体が政治性だ。
結局、東氏は、南京事件および慰安婦問題を否定する側にシンパシーがあるのではないか?
それらが無かった、と、考えているのではないにせよ、あったと主張している側の地位を落としたいと考えているのではないか、というのが、一つ推測される。


もう一つは、共感の問題だ。
東氏は、容疑者の苦しみと周辺住民の不安について語っている。容疑者が補償され、真犯人が捕まることを願っていると書いている。
容疑者の苦しみと周辺住民の不安について心から共感し、そのように思うのは当然だ。


「それが冤罪だというのも一個の政治的立場であって、真実・事実かどうか、我々には知る手段がない」というのは一面の真実であるが、それは口にしにくい。
俺だってしない。言われる相手のことを思うからだ。
また、それを口にすることで叩かれやすい、というのもあるだろう。


だが、もしそうであるなら。
足利事件の冤罪被害者を思いやる気持ちがあるのであれば、従軍慰安婦南京事件の犠牲者を思いやることはできないのか?
それらの政治性、事実の不透明性を強調することで、傷つく被害者がいることには思い当たらないのか?

D.ポストモダニズムリベラリズムの立場とは、このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ。

素直に共感できる対象については素直に語り、共感できないものについてだけ政治性を主張するのであれば、それはハードでもなんでもないし、自己矛盾もしていない。
ポストモダニズム系リベラルについて詳しいというつもりはないが、例えば皆が冤罪問題について共感している時に、あえて叩かれることを覚悟で「冤罪でない可能性」「冤罪を認めることで傷ついた警察や検察の立場」等を言及するのであれば、そこには価値があると思う。
逆に、叩きやすいものを叩くのであれば、それは最低の日和見、贔屓、差別だ。

共感を補うもの

もちろん、足利事件に比べて、慰安婦南京事件に対して、感情レベルで共感するのは、難しい。やりにくい。
時代も違うし国籍も立場も違う。
また人間は、個人に対しては感情移入しやすいが、「集団」に対してはそれがしにくい。
日本人であるなら、日本軍がした悪いことについてはあまり信じたくないわけで、さらに共感しにくいバイアスが働く。


ただし、共感できない対象についてのみ、政治性や断絶を強調するのが問題なのは言うまでもない。

誤差の相殺

人間は、身内を贔屓する。共感できる相手に対して優しい。そういうバイアスが入る。それはしょうがないし、一概に悪いことでもない。
好きな人を高く評価するというのは、好きな人の、良いところは、よく見えるということでもあり、それはそれで素晴らしい。


でもだからこそ、単純に共感できない相手に対してこそ、思いやるべきだ、と、思う。
そういう相手に対しては自分が中立のつもりで冷たく当たっている可能性が高いから、意識的に優しくして、ようやくバランスが取れる、という考えだ。


「中立性」というのは、左右の主張に対して位置取りをすることではなく、そのように自分に対して厳しくなることだと考える。