科学者とは自説を攻撃するものであるということ
科学的な立証とは
定説が定説である所以は、先に書いたとおり、無数の批判・検証にさらされて、無数の論拠を持つことによる。
それらを、たった一個でチャラにするような銀の弾丸がある、とは、通常、考えにくい。
もしも、「この事実αさえ立証すれば、定説Aは崩れ去る」みたいなものがあれば、その事実αは既に何重にも検証、検討されているはずである。
トンデモと科学を分けるもの - 東浩紀の文章を批評する日記
先日のエントリーで、このように書いた。
科学というのは、自己批判によって成り立っている。科学において、説を立証したり強化したりする、ということは、それを様々な角度から批判することと同じである。
なので、科学者は新しい説を立証しようと思ったら、自分で自説を思い切り批判するところから始める。
想定されるあらゆる角度から「この説が正しかったら、ここはこうなるはずだけど、実際どうよ?」というのを自分で積み上げてゆく。積み上げてから潰してゆく。潰しきれないところについては「こういう疑問があったけど潰しきれなかったよ」と正直に書く。
もちろん、人間のすることなので、間違いや不足には事欠かないし、利権やらメンツやが絡んで、ややこしい話になる時もある。誰だって、やっぱり自説は可愛いので攻撃されて怒ったり喧嘩したりもする。けれど、少なくとも、それらが当然の手続きである、ということは了解されている。
これは単なる道徳の問題ではなくて、当人の検証がいい加減なら、他の科学者から突っ込まれまくるし、いい加減な検証の論文をあげる人は大きく評価を下げる。科学者が科学者としての評価を得るためには、自説への容赦ない攻撃が必要なのだ。
このへんは、論文を一本通した人であれば、同意してもらえるだろう。
ありがちな誤解
普通の科学解説書には、そういう背景はなかなかでてこない。
紙幅とまとめの都合で「新しい仮説を出した→観測事実や実験と一致した→うお、こいつ天才!採用!」くらいのノリで書かれているが、実際には、すげー地味〜な研究を一つ通すだけでも、死ぬほどの苦労がなされているのだ。
派手な研究……すなわち、大きな枠組みの仮説や、既存の定説を覆すような主張であれば、必要とされる批判的検証の量は、さらに膨大になる。本当の天才がエレガントな説を出して、「おっ、これは正しそう」と聞いた瞬間にみんなが思って、実際正しかったような場合であっても、そういう膨大な批判的検証はなされてきた。
それはそれとして
まぁそういうことなので、科学者の中で長年もまれた定説に関しては、素人レベルでは、比較的、気楽に援用することができる。
逆に、定説と異なる主張については慎重になったほうがいい。
もちろん、ネットのカジュアルな状況で、論文誌の査読並の検証を要求するのもバカバカしい話ではある。
素朴な思いつきを書けるのもネットの良いところで、そこから話が広がることもある。
とはいえ、新しいことを主張する時には、相応の謙虚さは必要だろう。
そこにおいて大切なのは、「自説に対する批判的検証の視点はあるか?」という視点だ。
定説に反することを自信たっぷりに書かれている場合、私は眉に唾をつける。
逆に、誰かに言われる前に、自分から自説の問題点を洗い出している人には、私は好感が持てる。
不確定な中で考え続けるということ
さてさて、世の中というのは、よくわからんことが多い。
調べたら調べた分だけ、わからなくなるという場合もある。
専門家だって、完全な答えを持っているわけではない。専門家というのは、「ここからここまではわかってるけど、ここから先はわからない」という点に厳しい人達のことだ。
で、それは昔っからそうだったし、これからもそうだろう。
ただ、それはしかし、素人として妥当な判断を下す方法が全く無い、ということではない。
努力することで、よりよい判断ができるし、ちょっとした点に気を付けることで、努力の効率をあげられる。
逆に、「不確定な世の中なので、どんな判断も意味がない」というのを過剰に言い立てる人は、私は警戒する。難しい判断というのは確かにあるが、普通に考えて済むこと、それが役に立つことのほうが多い。
不確定な世の中であっても、考えるということは十分に有効だ。
逆に言うと、先のような発言は意図的であれ結果的であれ「考えるのをやめちゃえ」とそそのかしているに等しい。
考えても解決しない問題もあるかもしれないが、考えるのをやめていいことがあるかと言えばないだろう。
敢えて、それらを勧める動機としては、例えば、自分が考え無しにいいかげんなことを言うのを正当化する場合がある。
あるいは、自分の望む結論に誘導するために、批判精神を停止させることが目的かもしれない。
後者の場合は、「感覚的には気持ちいい主張」とセットになっていることが多いだろう。
学問が何かを証明したとすれば、それは考え続けること、それも一人ではなく、皆で考え続けることの価値だ。そのことは覚えておいて損はしないだろう。