データベース先行型作品について

 先ほどは、「データベース消費より作品が先攻する」と書いた。
 だが、確かにそうでなく見えるものもある。

 東は、デ・ジ・キャラットを挙げているが、これなんか確かに、作品という実体を欠いた状態から始まって、データベース的な消費が先行して、あとで作品となった例と言えなくもない(コゲどんぼによって支えられた部分を忘れちゃいけないけど)。

 そういうのだと、ゲーム発売前にグッズ人気だけ先行したセングラとか、萌えるエコアイスのえこことかが思い当たる。

 オタク自身がポストモダン化したのでないとすると、こうした現象は、どう説明されるのだろうか?

 話は簡単で、こういうのは内輪ネタとして有用だからである。

 内輪ネタというのは、そのネタを知っていることで、集団へ帰属する心が満たされ、また、回りに対して、優越感を抱ける。

 ネタとして成立する過程での、でじこやえここは、まさしく、そういう存在だったわけだ。

 こういう秘密の内輪ネタを共有すること自体は、いつの時代もオタクのステータスであったし、これからもそうだろう。ネットの時代になって、そうした内輪ネタの共有方法が変わってきた、というだけだ。昔なら、えここのようなネタは、なかなか広まらなかっただろう。

 でじこにえここ、ビスケたんや50えんたんは、それらを発見(作成)し、広めて、共有し、その中で、「それを知って萌えている俺」を楽しむ、という「遊び」である。

 自分で参加する「遊び」「お祭り」だから楽しいのであって、作品として、データベースとして消費すること自体に、それほど価値があるわけではない。

 東の想定するような、実体のないデータベースだけを食って喜んでいる第三世代オタク、というのは存在しない。

 でじこみたいに、あとでアニメになって、それが面白かった、という場合は、遊びから、作品としての面白さへシフトすることもあるけどね。