第2章 解離する人間

 二章の続きでは、オタクが、「大きな物語」を否定しつつ「ウェルメイドな物語」の欲求を高めている矛盾が提示され、以降、それについて話が巡る。

 この矛盾は、東が、「オタクはポストモダン化して、大きな物語を必要としなくなった」と決めつけたことに端を発している。望月モデルだと、オタクの性質は変わってないので、これは矛盾でもなんでもないことになる。

 東は言う。今のオタクは、「小さな物語への欲求」を動物的に満たし(つまり、泣かせゲーを単純に消費し)、擬似的で形骸化した人間性をもって、データベースという「大きな非物語への欲望」を消費する(つまりネット上とかでの、浅く、感情移入を伴わない付き合いの中で、ビスケたん萌え〜とか言いあってみる)。

 いや、別に、そんな風にはなってないよ。

 泣きゲーに代表されるような感情をわざとらしく満たすような作品は、今も昔もあったし、今も昔も人間は、それを動物的に消費する。

 確かにネットだけでの薄いつきあいもあるけど、オフで(あるいはオンで)じっくり話す趣味の友達だっているわけだ。データベース的な消費とかしながらも、ほんとに熱い作品にあったら、熱く語り倒す。

 オタクは、世界を震撼させる謎も、神のごとき作画も、雄大な世界設定も、泣かせるドラマも、みんなみんな大好きだ。流行として、「そろそろエヴァっぽいの飽きたよ」とか「葉鍵はもういいよ」と思うことはあっても、これらを本当の意味で嫌いになったことなど一度もない。

 データベース的な消費もするようになったけど、それは個々の作品のストーリーやテーマやキャラや演出や作画やデザインや声優やシステムが嫌いになったからじゃない。

 例えば「月姫」を遊んで感動したから、タイプムーンが次回作を出すまでの間に、アンソロ読んだり、グッズを買ったり、SSを読んだり書いたり、吸血大殲でキャラネタやったりして、同じ月姫を面白いと思った人と交流するわけで。

 断じて、データベース消費が最初にあるわけじゃない。ネタとして、そういう遊び方をする「時も」あるけどね。

 この、とっても単純な事実が、描かれていないことが、この「動物化するポストモダン」に多くのオタクが反発した理由だと思う。