宮崎アニメについて
http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20030909#p4
上記で述べた論考に関し、「宮崎アニメが、おたくアニメに含まれるかどうかは、断定できる性質のものではないのではないか。また、たとえ宮崎アニメがおたく系に分類されようが、されなかろうが、論考全体に影響はないのではなかろうか? という意見をいただきました。
これは、その通りだと思います。ご意見を受け止めて、いくつか訂正します*1。
まず問題なのは、「宮崎アニメ」がおたくかどうかではありません。
ここで俺が気になるのは、東氏が、おたく系アニメを「リミテッドアニメ」「フルアニメ」に分類し、宮崎氏ほかを後者に分類した上で、前者がおたく的である、と主張していることです。
言うまでもなくアニメというのは、おたく系文化として、非常に大きく複雑な構造を持っており、一本の軸で簡単に分類できる性質のものではないでしょう。それは言ってみれば、「男性的な強さ、女性的な優しさ」みたいな、いい加減な二元論のようなもので、様々な異論、反論が予想される。
それでも、議論のとっかかりとして、そういう軸を設定するのはもちろん問題ないわけです。このあと、様々なデータを検証し、より良いモデルを作っていき、それが本全体の中で大きな意味を持つ、というのであれば、結論を先に書くことは問題ない。
ただし、ここの議論はそうではない。第1章全体のテーマである「アメリカ文化の侵略によって、日本のポストモダン化は行われた」という理論の「結果」の一つとして、天下りに導入されており、それに対する検証は、全く為されていない。こんな重大な結果を、そんないい加減に導く態度は、不誠実だと思います。
次に、「リミテッドアニメがおたく的で、フルアニメがそうでない」という見解が、本当だろうが、そうでなかろうが、東氏の後半の論考には影響がない。その影響のないことが大きな問題です。
全体の論考に無関係なことだったら、そういう粗雑な二元論で日本アニメを語るのは、なおのこと問題でしょう。書かなければ、誰も問題にしないわけで。これは重箱の隅、というより、大いなる蛇足*2というべきものです。このことは、宮崎アニメだけではなく、1章全体について言えます。
以上のように、ここの問題は最初の日記で書いたように「宮崎アニメ」をおたくと認めるかという問題ではなく、アニメ全体を粗雑に割り切る東氏の、不用意な論考にある、と主張します。
さらに詳細な議論をして、「やっぱり宮崎アニメはおたくじゃないよ」という結論が出る分には、なんら文句をいうところはありません。