「動物化」の文脈

 以上を踏まえた上で、「動物化するポストモダン」以外で、東が、「動物化」をどのような意味で捉え、どのような意図で使っているかを調べてみよう。

僕としては、「考える主体」としてではなく、「生きる身体」「生かされる身体」としての人間という感じで使っています。でもこれは日常用語であって、とくに学問的な定義があるものでもない。そもそも人間には、人間的な側面と動物的な側面の両者があるわけでしょ。そして僕が言いたいのは、いままで私たちが前者の領域に割り当ててきた文化産業も、実はけっこう私たちの動物的な部分に奉仕するものではなかったのか、ということ。
「網状言論F改」p170

 これでわかるのだが、東の中では、娯楽作品、という概念が、すっぽぬけていて、全ての文化は大文字の「文学」とか「芸術」とかだけなのだろう。

 あのですね、娯楽作品というものは「頭からっぽにして楽しめる」ものであって、動物的な側面に奉仕するものなのは、娯楽作品が始まった当初からずっと言われ続けてることですよ?

 娯楽作品の物語というのは、図像的快楽をつなぎあわせるノリ程度のものだし、高尚なテーマなど必要ない。

 必要ない上で、時折、娯楽作品としてのパワーを全て持って、なおかつ、テーマについて考えさせる真の名作が現れてくることもある、というだけだ。

 他の例を見てみよう。

純文学系の小説は、作者が書くべきことをすべて握っていて、言語化する段階で七、八割くらいに再現度が落ち、さらに読者が読む時点では四割くらいに落ちる、という発想で作られている。読者は、これは四割くらいなんだろうなあ、と思って読むわけで、これがいわゆる行間を読むということですね。ところがノベルズでは、作者は四割ぐらいの情報しか出さず、残り六割は読者のほうで補えという感じで作られている。これが大塚さんの言うマンガ・アニメ的リアリズムというものだと思うんだけど、ここでもやはり、じゃあオリジナリティはどこに行ったんだという疑問が出てきますね。
新現実・p135

 ここで東は、「過去の(いわゆる)純文学」と「現在のノベルス」を比較して、昔のほうがテーマがあって、現在のほうが動物的だと言い張ってる。そりゃ当たり前だって。
 純文学というのは、オリジナリティが評価される場所であり、ノベルスを含む大衆娯楽というのは、より多くの人に受けることが評価される場所である。
 比べるなら、昔の純文学と今の純文学、昔の娯楽小説と今の娯楽小説を比べるべきであろう。

 こんな無茶な比較で、社会全体の趨勢が変化した、と言い張るのは、あまりに粗雑な議論だろう。