動物化について2003 09/22

 東(id:hazuma)の文章で何度も使われる「動物化」の意味を、いくつか抜き出してみよう。
 東は、人間的な欲望と、動物的な欲求を対置し、社会的な関係の中で作られていくのが欲望、単純に欠乏を埋めて満足するのが、欲求としている。

したがってここで「動物になる」とは、そのような間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏−満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味する。
動物化するポストモダン」p127

 要するに、ある男に「女が欲しい」という気持ちがあった場合。
 それが、社会の中で、その欲望を認知させたいと思い、また、それゆえに、他人の欲望に嫉妬する。だから、実際に女性を得ても、その欲望はとまらず、他者の中で広がってゆく。そうした構造を持つのが人間的な欲望である。

 もう一方で、エロゲをプレイして、性欲のみならず、「女が欲しい」という気持ちまで他人を必要とせずに一人で解消できて、そこで終わったとしたら、これが「動物的」であるということである。

 これに関しては、確認したい点が3つある。

 一つ目は、、欲望を欲求に替えようとするのは、大衆娯楽の特徴であって、それ以上でも、それ以下でもないということだ。
 むしゃくしゃしたストレスを、それを消費するだけで、スキっと爽快に持っていくのが、大衆娯楽の一つの理想だろう。

 エロ本で一発抜いて、すきっと爽やか。カンフー映画を見て、ストレス解消。メロドラマを見て、涙だだもれ。
 いずれも、欲望を欲求的に解消したいなぁ、というニーズがあり、それに応えようとして進化してきた様式だ。こうした大衆娯楽作品において、テーマや物語は重視されず、萌え要素=流行に左右されるのは、よく言われることであろう。

 このような視点で見ると、『デ・ジ・キャラット』に萌え、『コズミック』を読み、『Air』に泣いているオタクたちの消費行動もまた、「動物的」という形容にまさに相応しいように思われる。(中略)かわりに彼らは、感情的な満足をもっとも効率よく達成してくれる萌え要素の方程式を求めて、新たな作品をつぎつぎと消費し淘汰している。
動物化するポストモダン」p128

 東はこう言っているが、動物的に消費するのは、何もオタク作品、あるいは現代の娯楽に限ったものではない。

 ポストモダンに人々が動物化したというなら、「オタクたちの消費行動」が、これまでの大衆娯楽と、どこが違うか、という話をしなければならない。紅白と比較して、どうか。NHK大河ドラマと比べてどうか。サッカーブームと比べてどうか。
 果たして、本当に、「最近になって」動物化しているのか?

 私の疑問は単純で、動物化の要素は、昔からずっと変わらず、人間が持っているものだ。だから、オタクの消費活動が動物的である、というのは、「近年、動物化が進んだ」とする証拠にならない、ということだ。

 二つ目に、一人の人間において、「欲求」があること=「動物的」ではない。

 誰しも「欲求」に近いものと、「欲望」に近いものを持っている。
 例えば、食べることに興味のない人にとって、食欲というのは、単に腹をふさぐ欲求でしかないかもしれない。そういう人は、カロリーメイトウィダーイン・ゼリーと、各種サプリメント類で食事を済ますかもしれない。

 一方で、グルメと呼ばれる人たちにとって、それは明確な「欲望」であり、自慢したりされたり、社会関係の中で、他者の欲望を欲望することで膨らんでいくものだ。

 これについて、食べることに興味のない人が、即、動物的、というわけでもなく、誰もがグルメであったほうが望ましいかというのも違うだろう。

 つまり、ある人が、「欲求」だけで生きていたら、動物的と言っていいかもしれないが、ある一つの趣味、嗜好について「欲求」を大きく持っているからといって、即、動物的と決めつけることはできないというわけだ。

 あらゆる趣味、嗜好について、他者と関わることを志向せよ、というのは馬鹿げている。娯楽というのは、そういうものではない。

 三番目は、オタク系文化の特徴についてである。
 東の考えるオタク系文化の代表が、「コズミック」「デ・ジ・キャラット」「Air」であると考える場合、以下のことが言えるだろう。
 すなわち「オタクは動物的な自分に自覚的である」、と。*1

 この稿でも述べた通り、オタクがデ・ジ・キャラットを消費する時は、その「悪意」……「おまえらなんか、萌え要素に反応する動物に過ぎないんだぞ」という明確なメッセージを受け取り、その上で、萌えて見せている、という面が非常に大きい。

 「コズミック」もそうだろう。あれは、当初は、「こんなくだらないもの読んじまったよ」と自虐的に語るものであり、また探偵小説の中の、超絶トリックやら萌えキャラやらへの肥大する欲望を皮肉って見せた本でもあった。

 「Air」にせよ、One、Kannon、Airの流れの中で、あからさまにご都合な悲劇シチュエーションが、どんどん肥大してゆくことへの自己ツッコミは、常にあった。

 いや、そもそも「萌え」という言葉が、単なる賞賛や感情表現の言葉ではなく、「萌え」ている自分へのテレを含んだ言葉ではなかったか。

 さて、なりふり構わず、欲求に動かされるのは動物だろう。ムラムラした時に、女を強姦すれば、それは動物だ。
 欲求を欲望に替えて行動するのも人間的ではある。ただムラムラしたからといって、始終、女をくどくのが最善、ということでもないだろう。
 欲求を欲求として、自覚的に処理することも必要だ。そして、それは人間にしかできない、とても人間的なことであると思う。腹が減った時、減りそうな時に、とりあえずカロリーメイトで腹をふさぐのと同じように、ムラムラについて、自覚的に「欠乏−満足の回路」を使用することは、人間にしかできないことだろう。

オタク系文化における萌え要素の働きは、じつはプロザック向精神薬とあまり変わらない。
動物化するポストモダン
p139

 そう、動物は、プロザックを飲まないし、飲みたがりもしないのだ。
 自分の動物性に自覚的な人間だけが、プロザックを飲むのだ。

 整理してみよう。

  1. 欲望を欲求的に解消するのは、娯楽自体の持つ性質であり、特に近年そうなった、という根拠を東は示していない。
  2. 一つの欲求を持つこと自体は、当人が動物化したことを意味しない。誰しも、欲求も欲望も持っている。
  3. 自覚的に欲求を解消するのは、動物的というよりは、人間的であろう。近年、そうした自覚が出てきたきたというなら、それを動物化と呼ぶべきか?

 結局、東の議論は、90年代オタク(あるいはポストモダン文化全体)を説明するに至らず、また、欲求のみに着目して、社会全体が、「欲求=動物化」していると断じている。
 場合に応じて欲求と欲望を使い分ける……人間誰もが、当たり前にやっていることへの評価が抜けている。
 それだけで「社会が動物化した」と言い張るのは、あまりにも稚拙な議論であろう。

*1:歴史上、あらゆる大衆娯楽の中で、オタクだけが自覚的であった、ということではない。