動物化する社会

(オタクたちは)集団として見れば、結局、猫耳が流行れば、バーッと猫耳、メイドが流行ればバーッとメイド、羽根が流行れば羽根というわけで、単にもう動物的に動いているだけだろう、と。むしろ、そういう風に捉えたほうが、オタクたちの行動は効率的に説明がつくし、その時に集団コントロールの技術がどんどん洗練されてているという展開を見たほうが、オタクのカルチャーは面白いんじゃないの、というのが僕のポイントなんです 網状言論F改(p23)。

 東氏(id:hazuma)の、その他の著作を見るに、彼は、技術によって、人間が補足され、分析され、支配されてるとも知らずに支配されることへの危惧があるようだ。その危惧自体は、非常に共感できるものであり、考える課題であると思う。

 「動物化するポストモダン」も、その流れで、取り替えの利かない作品性ではなく、個々の記号の組み合わせで人間が支配されてゆくことの分析でもあるのだろう。

 だとすると、お粗末すぎだ。

 お粗末な第一点。問題意識について。

 例えば、東の言う情報自由論関連。
 現代社会における個人情報拡散の問題は、問題自体が意識されていないところに大きな危険性がある。
 ちょっとしたシステムが、回り回って、どんな大きな影響を及ぼすか。それはシステムを設計している時点では、全然気づかないようなところから発生するかもしれない。
 だから、システムを作る側、利用する側、法規制する側、それぞれに、これまでにない知識が求められる。
 これは、情報化社会特有の問題であり、大きな問題意識として、広めていくべきことである。

 一方、娯楽作品というのは、人間の動物的側面が常に意識されていた部門である。
 見る人間を怒らせ、笑われ、泣かせる技術が、意図的に磨かれてきた場所であり、そのことは、それこそローマ時代からわかっていただろう。
 内容のない「俗悪」な作品が、感情をコントロールするという、ただ、それだけのために作られ、消費される構図は、お馴染みのものである。「物語も何もどうでもよくて、ただ、感情をコントロールする」ためだけの俗悪作品は昔からあり、作る側も消費する側も、それを俗悪作品の特性と認識している。
 「娯楽作品は中身がないけど、泣けたり笑ったりしますよ」というのは、問題意識として広めるには、あまりにも一般的で馬鹿馬鹿しいことだろう。それが近年のポストモダン化だとか、エヴァの断絶以降95年以来のトレンドだとか言い募るのは、馬鹿げているとしか言いようがない。

 もちろん、「気づいているより深く、意外なところまで支配されている」ということなら、おおいに聞く価値はあるが、東の論では、そんなところまで出てこない。

 お粗末な第二点。集団コントロールの技術について。

 大衆娯楽には、記号がちりばめられている。正しい記号の組み合わせを選ぶのは、売れる娯楽を作る重要なステップである。

 だが……記号だけ揃えれば売れるというなら、誰も苦労はしない。「うまく記号を描く」ことが重要なのだ。

 記号に対する反応が人間的だというつもりは、それほどない。
 極論するなら、魚をひっかけるルアーを考えればいい。どういう色、形なら魚が反応するかは知られているが、本当に、いいルアーを完成させるには、微妙な色艶、形を調整する必要がある。
 「売れる記号」から、「売れる作品」を作るには、緻密な技術が必要となるのだ。

 東は、何度も、この単純な事実を無視しようとする。

 彼は、記号性と作家性(独自性)を対比させ、作家性が没落したのだから、記号性が受けるだろうという単純な図式に陥っている。挙げ句の果てに「最近のアニメファンは、作画を気にしない」とか言い出す。

 売れる記号を売れる作品にするためには、技術が存在するし、それは昔からのことなのだ。

 お粗末な第三点。集団コントロールの技術について。

 東の考える「集団コントロール」の技術は、「記号の組み合わせを考える」ところで終わってしまっている。それ以上、分析できなかったわけだ。

 集団コントロールの技術には、おおざっぱにいって共有できる部分と、その先にあるセンスとも呼ぶべき部分がある。

 ハリウッド映画を見ればわかるだろう。売れるためだけに作られた市場原理の申し子のような作品群で、システマチックな作られ方をしながら、それでも、様々な監督のセンスが重要な役割を示している。*1ステマチックに作ったはずの作品が、大ゴケしたりするのも日常茶飯事だし、意外な作品がブレイクすることも数多い。

 一方で、確実に共有できる技術も確かに存在する。同じオタク論の本で、岡田斗司夫あたりが紹介して有名になった、ハリウッド映画の時間配分。そうした演出論全般には、既に、集団コントロールのためのノウハウが刻み込まれている。

 日本における集団コントロールの技術について調べたいなら、ミリオンセラーのアルバムやら、視聴率の高い人気番組やらの作られ方について調べるのが一番の早道だろう。
 お金がかかるところほど、作る際に保証が必要となる。事前に「なぜ、これが売れるか」というのを、論理的に説明できなければならないから、そこには確固たる方法論が生まれてくるからだ。

 オタク業界というのは、せいぜい数万から十万のジャンルであることは述べた。よって、この業界は、それほどシステマチックになっていない。記号選択のレベルですら、良くも悪くも、「センス」が通りやすくなっている。漫画、ノベルゲームなんかは、そういう部門であり、そういうところから、次の流行が生まれたりする現状がある。

 「オタク業界が、動物化する社会の最先端だ」というのは、東の思いこみであり、何の根拠もない。

 もちろん、「小集団に分割して支配する技術」について語りたいなら、オタクをサンプルにしてもよいが、それならば「記号を集めればいい」は、お粗末すぎだろう。そんなのは、ミリオンセラーのアルバムだろうが、人気番組まで、どの世界でも共通して行われる方法論だからだ。
 小集団特有の支配方法について語らねば意味がない。

*1:もちろん、監督の名前は、ブランドイメージのすり込みとしても使うための面もあるが、それだけではないだろう?