細部が細部でしかない場合
さて、全体的な大きな流れが存在する時も、常に、それに反発する部分はある。川の流れは上流から下流へいくが、その中にはよどんでいたり、逆流していたりする部分もある。
この時、ことさらに、逆流する部分を取り出して、「川が流れてるとは言えない」と言うのは、間違った反論であり、「細部であって本筋ではない」と否定すべきものだろう。
一方で、この反論が成立するためには、「全体的な流れがある」ということが証明されねばならない。
この日記で度々述べていることは、東の議論に、その「全体」と「細部」を対比した視点が欠けている、ということだ。
私は、東の論における「萌え」や「データベース理論」が、大衆娯楽に共通する性質に過ぎない、と論じてきた。
これについては、もちろん、昔の作品と今の作品で違うところはあるし、また、昔からあった傾向が、最近、特に強まっている、という議論もできるだろう。
では、どんな視点に立って、どんなデータを集めれば、それが比較できるのか?
昔と今で違うところというのは、どうカテゴライズするのか?
強まっている、というのは、どんなデータに現れるのか?
東の論においては、それが全て欠けている。
「メタリアルフィクションの誕生」において、彼は、こう書いている。
筆者は社会学者の訓練を積んでないが、イメージとしては、社会学の研究発表を行うようなつもりで書き記したのが、『動物化するポストモダン』である。しかし、本論(日記筆者注:メタリアルフィクションの誕生)のほうは、むしろ文芸評論のフォーマットに基づいて書かれている。ここでの筆者の意図は、作品を社会問題を反映するサンプルとして扱うのではなく、むしろ、例外的な少数の作品から、そのような一般性に還元できない剰余を引き出すことにある。したがって、本論では、ライトノベルの定義は行わないし、読者に対してその創作技法や市場構造を解説することもしない。(中略)それらの作品(日記筆者注:本論で取り上げて評論する作品)は、確かにライトノベルの市場と深い関係にあるが、必ずしもその傾向を代表するものではない。評論にいたっては、市場とは無関係である。にもかかわらず、それらが取り上げられるのは、筆者がそこに、ゲーム的でライトノベル的な「問題」がもっとも鋭く現れていると考えたからである。それはおそらくはたいへん偏った見方だろうが、文芸評論とはそういうものなのだ。
ファウストVol.1 「メタリアルフィクションの誕生」p257
ここから分かることは、「動物化するポストモダン」のような、一般性を引き出す議論においては、東は、社会学の手法が有効であり、作品は「社会問題を反映するサンプル」として扱うべきであり、市場構造を分析すべきである、と考えている、ということだ。
だが、そうした検証は、「動物化するポストモダン」においては、全く見られない。
でじこの市場規模は、どれくらいなのか? 「雫」は? 「痕」は? それらは、本当に、「萌え」文化を代表するに値するものなのか?
オタク第1〜第3世代とする分類は、社会学的にどのように正当化されるのか。
そうしたデータは、東の論に、全く存在しない。
そうした「検証がない」姿勢を批判する上で、「それは細部であって本筋ではない」という議論は意味がない。
細部を積み重ねて、本筋が出来上がるのだから。
無論、存在しないことを認めて、叩き台として論を提出するのは、おおいに意味がある。仮説に、少しずつ事実を肉付けしていくわけだ。
だが現在、彼の書くものは、前述の「メタリアルフィクションの誕生」を初めとして、「動物化するポストモダン」で書かれた理論を、検証するのではなく、前提として書かれている。
この姿勢は、学術的には誤っており、問題を孕んでいると指摘するものである。