細部が本筋である場合

 さて、議論によっては、全体的な流れはどうでもよく、細部の説明自体に意味がある場合もある。
 それは、全体的な流れが存在することが、誰にも了解されている時である。

 例えば、「物を落とすと、やがて落ちる」という大原則は、誰もが了解している。その次の段階として、「じゃぁ、いつ、どのように落ちるのか」という議論ができる。

 その中では、「風がなくても、形によって落ちる速度が変わってくる」といった議論や、「形と、風向きによっては、上昇するものだってある」といった議論が出てくる。

 そういう細部の形を議論してる時に、「いやいや、物を落とすと、やがて落ちるんだ」と言うところまで戻るのは、戻りすぎである。いかに大原則として正しいとしても、その議論では意味がない。

 東の議論についても、それと同じことが言える。

 東の動物化の議論は、つきつめていえば、衣食住が安定して保証され、政治についても心配しなくてもいい状況では、人間は、自分の欲求を満たすことだけを考えるようになる、ということだ。

 このへんの議論は、誰しも反論はなく、当然のこととして受け入れるだろう。
 手を離した物体に重力が働くように、社会においてそうした力は働いているだろう。それも強く。

 ただし、物を落としても、速く落ちる物体も遅く落ちる物体もあるし、また、風向きによっては落ちるどころか上昇する物体すらあり得るように、人間の動物化にも、色々な現れ方があるはずだ。

 例えばオタク系文化について言うならば、全体的に動物化する方向に向かっている、とは言えるかもしれないが、それが、何年のスパンで、どのように起きているかは、はっきりとは言えない。

 ただ単に時間が過ぎているから、というだけで、ヤマトよりガンダムが、ガンダムよりエヴァが、より動物化している、というのは根拠のない決めつけに過ぎない。

 「動物化するポストモダン」は、本来、オタクをモデルにして、そうした「動物化の細部」を語るべき本だったはずである。それは、具体的にオタク系文化が、どのように変化してきたかの実証がなければ意味がない。
 ここにおいては、つまり、「細部が本筋」なのだ。

 この時、「それは細部であって本筋ではない」とするなら、それは、間違っている。

 確かに、「社会は動物化している」「オタクも社会の一部である」「よって、オタクも動物化している」という三段論法は成立する。オタクも動物化する方向に動いている面もある。

 だが、そんな大きな流れからは、「オタク第1〜第3世代における変化」とか「95年のエヴァを境に、オタク文化は変わった」等々という細かなことは語れない。

 細部が本筋の議論において、そうした間違いは致命的である。