フィクションと動物化
東(id:hazuma)は、 東は、人間的な欲望と、動物的な欲求を対置し、社会的な関係の中で作られていくのが欲望、単純に欠乏を埋めて満足するのが、欲求としている。そして、動物化の状態として、欲望を欲求として解消し、欠乏−満足の回路を閉じてしまう、と指摘した。
それはいい。自分の欲求だけに没頭する状態は、動物化と呼ぶに差し支えない。
問題は、彼が、「動物的に生きること」と「内容が動物的なフィクションを消費すること」を単純に同一視していることである。
「動物化するポストモダン」における彼の議論では、フィクションからテーマやら何やらが減ったのは、人間が動物化した証拠、ということらしい。
仮に、フィクションから、テーマやら意味やらが減っていたところで、それだけで何かが証明されるわけではない。それでは、「ゲームばかりしていると人間の死に対して鈍感になる」という紋切り型の批判と何ら変わるところはない。*1
そもそもフィクション……その中でも大衆娯楽というのは、欲望を欲求的に消費するものだ、というのは、先日書いた通りである。
今度は、逆に、テーマだの作家性だのは、動物化に対比できるものなのかを見てゆこう。