テーマという欲求

 娯楽作品を売る側からすれば、「テーマ」というのも、欲望を欲求的に消費させる一つの要素でしかない。

 例えば、人間には、「社会的に有意義でありたい」という欲望がある。この欲望を欲求的に消費させるために、「社会性のあるテーマ」を持った作品が作られる。

 「24時間テレビ」や「プロジェクトX」を想起されたい。扱っているテーマ自体は、人と人とのつながりやら、夢を現実化することといった高尚なテーマではあるが、あれを見て満足するのは、非常に動物的な欠乏−満足の回路であろう。

 こうした欲望は常にあるし、それはつまり欲望を欲求的に解消する作品の需要も常にある、ということだ。

 娯楽作品のフィクションにおいて、「テーマ」というのは、二つの意味がある。
 一つは、今あげた、特定の「テーマ」に対する、読者の欲望を、欲求的に解消させること。
 もう一つは、お話に一貫性を持たせることで、より印象を強くすること*1

 そんなわけで、高尚なテーマ(あるいは世界観、あるいは作家性etc..)を扱えば、人間的な作品である、というのは、意味のない話だ。

 無論、娯楽作品の中には、そうした枠を超えて、受け手に強く語りかけるようなテーマがにじみ出る作品もある。ただそれは程度問題で、どんな娯楽作品でも作る側には心に思うことがあるだろうし、逆に、本当に意味のあるテーマを持った作品など、常に一握りであるとも言える。

 ガンダムは社会的なテーマがあったかもしれないが、「だからガンダムの時代は人間的だった」と関連づけるのは、馬鹿馬鹿しい話だ。その作品が優れていたことと、その時代全体がそうであったことを、単純にイコールでは結べはしない。

 東の主張を裏付けるためには、まず娯楽作品において、「テーマ」や「物語」の占める率が本当に減ってるかどうかを、きちんと検証しなければならない。
 次に、一見して「テーマ」のある物語の中で、動物的な欲求を満たすもの以上であるものを、どう見分け、どう設定するのか、という難しい問題がある。
 最後に、それが本当に時代を反映しているのか、というチェックが必要だ。

 その3つとも欠いている論には、本来、意味がない。

*1:散漫な話というのは記憶に残らない。長いお話を、一貫したテーマに関連させて語ることで、記憶に残りやすくするというわけだ。