そんなわけで、感想メモ程度に適当に。

 今回の「メタリアル・フィクションの誕生」は、大塚批判に終始している。

 基本的な流れは、「ゲームにおけるリアリティの無さを大塚は批判している」→「そのリアリティの無さと見えるものこそがメタリアルを作っているのだ」というわけなのだけど。
 ただ大塚は別に、ゲームにリアルがないなんてことは言ってないよなぁ、というのは、前に指摘した通り。

 さて東は、ポストモダンの現代、あらゆる物語が解体され、消費されていく現実を見すえた上で、なお、物語を語り続けようとする作品を評価しようとする。
 「近代的な創作=消費原理に、ポストモダン的な創作=消費原理を接ぎ木するという無謀な試みを選び取っている小数の作品や作家」だそうである。

 そうした作品は、個人的にも評価するし、その価値を発見しようとする心意気も買うのだけど、ぶっちゃけると脇が甘い。

 なぜなら、ここで東が前提としてる対立構造は、以下のようなものであるからだ。

・旧来のストーリー=モダン=作者の支配する単一価値観=一個の線の中で完結したストーリー=説話、物語の共通構造
 vs
・新たなストーリー=ポストモダン=受け手の解釈による複数価値観=錯綜するメタなストーリー=メタリアルなゲーム的物語

 これは、間違い。

 本文中で、大塚の立ち位置として語られる物語、説話の構造だが、これは、「人間にとって、見てわかりやすく、生理的に快感を感じやすい」構造として、自然発生してきたものである。

 そもそも物語や説話というのは、唯一絶対の作者がいて、単一な世界観、価値観を重視するようなものではなかった。
 それは、伝承と事実が入り交じったメタ的なものであり、語り部がライブで語り直すたびに、受け手がツッコミを入れ、それによって細部が変わるものであった*1

 「作者」なんてものがクローズアップされたのは、つい近年のことに過ぎない。物語構造は、それ以前からあったわけだ。

 よって、「モダン」で「単一価値観」で「物語を閉じる構造」云々というのとは、必ずしも、一致しない(物語構造のサブセットとして、単純でわかりやすく閉じたストーリーからは快感を得られやすい、というものがある、というだけだ)。

 わかりやすい例だが、「アルマゲドン」が流行った頃、「暴れん坊将軍」のエピソードに、「江戸に巨大隕石落下の危機が!」ってのがあった。
 このストーリーは、時代考証とか価値観とかを大概ぶっちぎっているが(=単一価値観の破壊)、それがストーリーの価値を下げることはない。最後に、上様が暴れれば(=物語構造)、気持ちよく見られるわけだ。

 逆に言うと、メタフィクションでも、受け手が面白いと感じるものは、間違いなく、きちんとした物語、説話構造を持っている。

 むしろ、単純なストーリーというテクニックを放棄した分、それ以外のところで、必ず物語構造(=人間が快感を感じる基本原則)を踏まえている、と断言してもいいくらいだ(さもなければ、前衛的すぎて、誰もついて来れない作品となる)。

 このへんをしっかり押さえないと、単に物語のお約束を踏まえつつ、表面にメタフィクションをトッピングしただけの内輪受け的な作品を「近代的な創作=消費原理に、ポストモダン的な創作=消費原理を接ぎ木する」作品と見誤りかねない。

 メタフィクションな物語は、「胡蝶の夢」から始まって、ディックや神林や押井まで、長い長い伝統がある。不条理オチというのは、一種の伝統芸能として成立している。
 それらに対する理解が足りない内に「メタリアル・フィクション」を語るのは無謀だなぁと思う。

*1:つまりはTRPGであり、プレイヤー視点が組み込まれている。東の言うゲーム的なメタリアルそのものとも共通するのだ