さてさて、何かの作品を批評して、その作品の価値を定めるということが行われるとする。では、その批評の価値は、どこに求めたらいいだろうか?
 理論には検証がつきものである。そうした批評も検証してみればいい。

 具体的には、こういうことだ。
 「この作品は、A、B、Cの理由で素晴らしい」という批評があった時、思考実験として、A、B、Cの性質を備えた作品を考えてみる。
 この作品が、「おお、確かに素晴らしい」となれば、その批評は、オリジナルの美点を、きちんと拾い上げたことになる。
 一方で、「条件は満たすけど、くだらない作品」になる場合、その批評は、オリジナルの価値を拾い損ねたことになる。

 もちろんオリジナルの美点を100%拾い上げることは不可能だし、こうした検証が意味のない批評というのもあるだろう。

 ただ今回の場合、東の批評の目的は、「メタフィクションのリアリティ」を拾い上げることだ。よって、「うん、確かに拾えてる」「全然拾えてないじゃん」というのは、検証として成り立つ、と考える。

 で、東の「九十九十九」批評である。

 まず、俺個人の感想から。
 この本は、清涼院流水の作ったJDCの世界観に基づいて書かれたJDCトリビュートの一作である。

 で、ぶっちゃけ俺、JDCはそんなに好きじゃない。「九十九十九」も、JDCトリビュートと知らずに買って読み始め、気づいた時には、ちょっと後悔した。

 ただ、読んでる内に引き込まれた。月並みな評価だが、圧倒的な筆力というやつだ。新本格メタフィクションのお約束として、「九十九十九」の中では、「同じ事件の入れ子構造」が都合7回繰り返される。普通、そこまで繰り返されると眠くなるものだが、一向に興味が薄れない。

 それを支えてるのは、パンチのあるセリフ、卓越した描写力、読者の集中力を引っ張るリズム感だ。どういうシチュエーションで何書いても、面白く見せることが可能なレベルに達している。
 もちろん誰もが知る通り、それに加えて、メタフィクションを構築するセンス、内面世界、外面世界をシームレスに語る技が、ずばぬけている。

 俺が考えるに、「メタフィクションならではのメタリアル」というのは、そうした細かい小説技法から独立して取り出すことは不可能なものだ。

 で、東の批評なのだが……この人の注目するのは、「身振り」「パフォーマンス」ばかりなんだよね。

「ひとことで言えば、俺はいくらでも物語を紡げるが、そんなのはみなくだらない、というのが、この作品からパフォーマティブに浮かびあがってくるメッセージなのだ」

 以下、東は、そのメッセージの例を、様々に取りだしてゆく。

 で。

 そんなメッセージを幾つ取りだしたところで、「九十九十九」から感じる面白さ、リアリティには永遠に届かないと思うのだ。

 例えば、気の利いた作家なら、東が端的に述べたメッセージやモチーフを全部こめた作品を書くことができる。俺でも書ける。
 JDCトリビュートで、自己言及的で、主人公および作品および世界観および物語のアイデンティティに唾を吐いて捏造し、仮想→現実へ向かうメタフィクションと見せかけつつ、構造を破綻させて……。
 だけど、それが面白いかといったら、まぁ、舞城の足下にも及ばないだろう。

 そういうメッセージや身振りは、所詮、内輪で消費されるだけのネタに過ぎないのであって、メタリアルな実感なんてものとは直接、関係していないように思える。

 東の批評では、舞城の魅力、メタリアルフィクションのメタリアルな面白さ、近代的な創作=消費原理に、ポストモダン的な創作=消費原理を接ぎ木する試みを、全然拾えてない、というのが俺の判断だ。