おおざっぱにいうと、「社会を変えたくて、サブカル批評あたりから揺さぶってみたけど、それじゃダメだったので、正面から政治&啓蒙活動に乗り出した」という宮台の苦労話と、「そもそも価値観が相対化された世の中で、なぜ、「あえて」社会を変えるのか?」という東のやりとり。

 相当に長い対談なので、要約には無理があるので、単なる感想。

 宮台が、エヴァについて以下のように述べる。

エヴァンゲリオン』を「引用の嵐だ」というふうに読む年長世代の読み方と、碇シンジくんの自意識を巡る物語として読む年少世代の読み方

 それに対して、東が第3の層を語る。

物語も元ネタも関係なく、「二次創作」の海(データベース)のなかでただただキャラクターを消費したいという「萌え」な連中ですよね。

 この時、宮台は、東の言う萌え層は、テレビ放映が終わった後の、ラグがあってからの反応だ、と切り返すので、お、さすがだな、と思う。*1

 さて、宮台は、結局、なんで、世の中を変えようとするのか、という根本のところを問われて「エゴ」であり「趣味」であると言っている。
 それに対して東は、自分自身の動機の問題を吐露する。

 というような状況で、言説のレベル、あるいはメディアのレベルで、
ある領域で知識人的に振る舞うことがなんになるのか、僕にはさっぱり
わからない。「がんばってどうなるんだろう?」というこの疑問は、実
存的な疑問というより、単純に費用対効果の問題でもある。せっかくの
人生、やはり有意義に過ごしたいじゃないですか(笑)。それを言い換
えれば、動機付けの問題となるわけですが。

 まぁ色々あるんだろうけど、この悩みには、ちっとも共感できない。

 趣味でありエゴであるところの動機付けというのは、要するに何かが好きということだ。
 アニメが好きなら、それをなんとかすべく努力すればいいし、ネットの情報の流通に理想があるなら、それを追求すればいい。
 簡単にはいかないだろうけど、でも、今、ここで何かできるのは自分しかいなくて、そのほんのわずかな違いに意味がある、と確信できればすればいい。

 十代の学生なら、そこまで好きなものが見つからない、という悩みもありだと思うが、三十過ぎたおっさんが、そういうことを言うのは見苦しいなぁ、という感想だったり。

*1:完全に余談になるが、データベース消費や萌えというのは、オリジナルを猛烈に希求したあとの、残り火であり、あるいは新たなオリジナルが出てくるまでの暇つぶしだったりする、と俺は考えている。