覚え書き

 読みにくいコメント欄で議論してました。参加してくださった方、読んでくださった方、ありがとうございました。
 そこで思いついたことの単純な覚え書き。

 作品の成立する条件は、その置かれている環境で決まる。環境の最たるものは、その市場、消費者だろう。

 つまり、時代が異なっても、環境が同じであれば、そこには同じような作品(とそれを取り巻く問題)が生まれうる。もちろん、特定の時代固有の環境がある場合、ほかの時代にはあり得ない作品が出てくるだろう。

 で。
 よく言われることだがシェークスピア時代から王道となる物語は全く変化していない、と言われる。俺はこれが真実だと思う。

 広く一般的な市場を狙う場合。つまりジャンルにも作品にも全然興味を持っていない人間を無理矢理振り向かせようとする時。そういう時は、誰もが快感と感じる共通項を狙っていくしかない。その時、物語は、必然的に、「ありがち」かつ「王道」となる。映画自体に全然興味のないやつを動員するからハリウッド映画はすごいので、そうしたストーリーは、昔から変わらない、お約束となる。この方向性を「一般向け」としよう。

 一方。狭い市場を狙う場合。ジャンル自体に興味を持っているマニア層を狙う場合。そういうマニアは、いろいろな作品を見ているので、同じ刺激では飽きがくる。よって「それ、飽きた。もっとほかのものをくれ」という現象が起きる。そういう層に対しては、王道が消費され、アンチ王道が生まれ、メタな物語が生まれ、メタメタな物語が生まれてゆく。そうやってジャンルが先細っていくうちに王道が再発見されてな。この方向性を「マニア向け」としよう。

 さて。日本の現代社会とかは、その情報の流通と国民の平準化で、誰でも簡単にマニアになれるようになった。物語もジャンルも、恐ろしいスピードで消費するようになった。それは現代特有の環境と言えよう。
 しかし、スピードこそ劣るが、作者とマニアがどんどんジャンルを消費して、マニアック、メタに流れていく傾向自体は昔からある。

 作品を規定する環境において、一番重要なのが、上に書いた消費者との位置関係なんじゃないの、と思うわけですわ。時代固有の問題、というのは、あるとして、ずいぶん優先順位が低い。
 だって、「一般向け」の作品は、ためいきをつくくらい同じなんだもん(細かいとこでの技術の変化はあるのだけど、それが目指す機能はまるで同じ)。「マニア向け」の作品にも、共通するポイントは本当にたくさんあるんだもの。

 例えば「トリストラム・シャンディ」が読者を引っ張ろうとして繰り出す、様々な技は、今、「九十九十九」で使われてるのに、そっくりだ。それは似たよな読者層、同じくらいのマニア度の読者を想定してるからに他ならない。

 社会全体で比べた場合、「トリストラム・シャンディ」の18世紀と、21世紀は恐ろしくかけ離れている。
 けれど、それぞれの読者に限定した場合。当時、「トリストラム・シャンディ」を読むようなごく一部の人間が形成した市場は、現代に「メフィスト」を読む市場と似た条件を持っていた、という仮説は立てられるかもしれない。だって作品が市場を反映するとすると、それらはとっても似てるんだもの。

 同じようなことは歌舞伎や浄瑠璃にも言える。もっと飛んで、ギリシャ・ローマの演劇にも言える。一般受けする王道があって、それを見るマニア層がでてきて、パロディやらメタやらがでてきて、という流れは明瞭に見てとれる。

 もちろん、これは、すごくおおざっぱでいい加減な物言いなので、穴はたくさんあるだろう。ただ、成立条件としては頭においておいたほうがいい。

 ファウスト氏は、「現代のあるアニメーターの苦悩とある現代芸術化の苦悩とある文学者の苦悩とある哲学者の苦悩」の共通部分が存在する、という主張をされていたが、少なくともそれよりは、「現代の舞城王太郎と、18世紀のトリストラム・シャンディ、あるいは、現代のジャンプ連載作品と、19世紀デュマの新聞連載小説」のほうが、共通点を見いだしやすい、と思うわけだ。