今回で4号目。だいたいパターンが見えてきた。

 crypto-survival noteZの基本テンプレートは、以下の通り。

・作品/アイディアを紹介する。
・従来のフィクションとは違うことを指摘する。
・そこに新たなリアルがある、と主張する。
・ではそれは何なのだろうか?
・続きは2週間後。

 紹介される、作品/アイディアは、こんな感じ。
 第1号の場合、映画「アイデンティティ」について。
 第2号の場合、メタフィクションについて。
 第3号の場合、「セカイ系」と元長作品について。

 第1号では、「虚構の人間とのコミュニケーションが現実を変える」ことがある、と思わせぶりに言っておいて、それはどういうことかと思えば「続きはでは2週間後に」。で、未だに続いてないし。
 第2号では、「人はメタフィクションにリアリティを感じる」で、どんなメタフィクションに、どのように、というところはナシ。
 第3号は、今後の展開。セカイ系メタフィクションの関係について語りたい、で、終わり。

 そして今回の場合は、佐藤心の「現代ファンタジー」についてだ。
 スーヴィンの図式……フィクションを認識/非認識、自然主義的、異化的という2軸で分類した時、「現代ファンタジー」に属するライトノベルな作品群は、通常の分類に収まらず、中間的な位置に入る。そして、そここそにリアルを感じる現実がある、とのこと。
 で、具体的にそれはなんで、どのような仕組みで、ってのは「では続きは2週間後に。」

 楽な商売してますね、東さん?

 俺も、ちょっと真似してみます。

 東浩紀の「crypto-survival noteZ」という連載がある。当初は作品批評を標榜しながら、具体的に作品を批評したのは1号だけで、あとは概論を語ることに終始している。
 この連載には、大きな特徴がある。基本的に、各評論は、「続きは2週間後に」という一文で終わるのだが、実際には続かず、違う評論が始まるのだ。

 従来の見方で考えれば、こうした連載方式は破綻している、と言っていいだろう。自分の言ってることを守らず、読者の期待を裏切るのだから。
 少額とはいえ、金を取っている記事である。普通に考えれば、このような記事には辛辣な苦情が殺到しそうなものだ。苦情が殺到しないとすれば、「そもそもメルマガにおいて期待されてない記事である」「読者に東の熱狂的な信者が多い」くらいだろうか。
 いずれにせよ、そうした記事を書くのは、ライターの無能力を表すものに他ならない。

 だが、果たしてそうなのだろうか?
 東浩紀が、構成力がなくて語ることもなくて、風呂敷を広げることだけ達者で、包むことを考えてないだけの、行き当たりばったりのヘタクソライター、と考えることはやさしい。
 だが、ここでは、東が、「あえて」そうした破綻した記事を書いている、という可能性について考えてみたい。

 東の方法論は、周辺(我々がメタなリアルに共感すること)について語ってゆくことで、内部(メタリアルの真実)に対する期待を増すことである。そして、最後の一瞬で、彼は、それを常にはぐらかす。本来内部に従属すべき周辺が、それ自体の価値を持つかのように。この逆転した構造は、ポストモダンを思わせるものである。

 では、東浩紀のコラム「crypto-survival noteZ」と、ポストモダンとの関係は何なのだろうか? なぜ彼は、そうした手法を採用したのだろうか?
 続きは2週間後に*1

*1:ヒント:続かない。