crypto-survival noteZ

今回は引き続き、「表象可能なもの」と「表象不可能なもの」について。 人間は、目の前にあるものを知覚できるだけでなく、その背後にあるもの、時にはありもしないものについて考察できる。それはなぜか? どのように考察できるのか? 東の理論によると、近…

今月は、人間の世界観の変遷について。 カントの「仮象」と「物自体」でもラカンの「想像界」と「現実界」でもなんでもいいが、人間にとって、世界は、「認識&理解できる、経験世界」と、「理解できない物。直接的な感覚の外にあるもの」の二つに分けられる…

映画モデルとコンピュータモデルの話がないな、と、思ったら、今号で書かれていた。 というわけで、おさらい。 東氏によれば、近代というのは、メタレベルと、オブジェクトレベルが、うまく結びついていた時代である。 つまり、一つの大きな価値観があった時…

さてさて、あらぬ方向に話を振り続けてきたcrypto-survival noteZ、10号にしてやっと、モダンとポストモダンの違いについて具体的に言及したのだけれども。 内容が肩すかしなところは変わらない。過去の文章の末尾を見てみよう。 近代社会のネタ/メタ分割…

さて、人は何かを信じるものであり、また、それを疑うものである。 何かを信じる“ベタ”な心は、人が行動するために必要だが、さりとて盲信は危険である。視野が狭ければ、他人のことを考えられなくなる。 一方、自己を客観視する、すなわち“メタ”な立場に立…

今回は、モダンにおける「大きな物語/イデオロギー」について。 モダンにおいては「大きな物語」が共有されポストモダンにおいては、それが崩壊した、ということになってるが、その「大きな物語」って何よ、ということである。 このような主張には多くの反…

この日記を書いていて、コメント欄などで感想をいただく時がある。賛成の時もあるし、反対の時もある。どちらも、参考にさせていただいている。 反対の中には、いくつかのパターンがあり、その中で多いのは、「望月は、東が引用する思想家の主張をわかってい…

ちなみに前半は、東的なポストモダン史観のまとめ。ベタとネタの乖離など。 これまでの東の理論がまとめられている。 ポストモダンな社会とは、単一の価値観がなくなって、複数の価値観が混在する世界である。 よって、そこに住む人間は、単一のリアリティ、…

まずは路線変更について。 当初は、作品論、状況論でアクチュアルな状況を語る予定だったのだが、そっちは波状言論のほかの記事で満たされてるので、こっちでは抽象的な議論をする方向に向かってきたこと。今後、その方向で書くのだそうだ。 抽象議論はいい…

今週は、作品批評は脇において、ラカンの三界説を扱う意味について。 東は、ラカンの説が実証性を持たないことを前提に、なぜ、それを意識する必要があるかを語る。 心そのものの働き、たとえば認知科学的な意味ではラカンの説はナンセンスである。だが、特…

今週も本題には近づかなかった。「しろうとうなぎ」みたいなコラムだな、しかし。 前号の「現代ファンタジー」のリアリティの元について、東はボードリヤールの「ハイパーリアル」を引用する。 東によれば、二種類の「ハイパーリアル」がある。 一つはヴァー…

今回で4号目。だいたいパターンが見えてきた。 crypto-survival noteZの基本テンプレートは、以下の通り。・作品/アイディアを紹介する。 ・従来のフィクションとは違うことを指摘する。 ・そこに新たなリアルがある、と主張する。 ・ではそれは何なのだろ…

今回は具体的な評論はなく、今後の展開の構想など。 メタなフィクションと、ベタなセカイ系の関係について語りたい、とのこと。 元長柾木の『未来にキスを』(otherwise、2001年)を、そのような解離的な相互依存をもっともみごとに作品化した例として分析し…

今回の東氏(id:hazuma)のコラムの内容は「メタフィクションは、なぜ、人を引きつけるか。それは、現実の世界がメタフィクション化してるからだ」というもの。以下は、その要約。 メタフィクションというと、よく物語構造への批評だとか、内輪受けの自慰行為…

巻頭コラム第2回である。 「旧作新作かかわらず、面白そうな作品を見かけたら貪欲に書き散らす」(創刊準備号)とあったので、散漫な記事であったら困るな、と心配していたのだが、その気遣いは無用であった。 今回の記事は、ファウストの「メタリアル・フ…