前半は流動性と多様性の矛盾について。

 近代においては、システムの様々な部品を、交換可能にすることで、より効率のいいシステムが生まれ、それが広がってきた。それが流動性だ。
 例えば会社においては、人間を部品と扱い、一つが壊れても、他ので交換可能にする。それによって一人の人間が死んだり怪我したりしても、会社というシステム自体は存続する。これが流動性である。流動性の高い会社は、高速で回転するため収益性がよく、生存競争に強い。
 ここから流動性を求める価値観が生まれる。

 一方で、多様性を重視する価値観もある。人間それぞれの個性。違う人種、文化との共存。それらが大切なものである、という価値観があり、また、違う価値観を入れることで硬直しがちなシステムに力を与えるという利益もある

 この二つが共存する間はいいが、当然、矛盾する。

 なんらかの大義(例えば国家のため)を信じていられれば、交換可能な会社の部品であっても人間は耐えられるが、そうした大きな価値観さえも流動性の対象になると、人間は耐えられなくなる。

 多様性においても、自分がよく知らないやつ、いけすかないやつと働くことになれば、当然効率は落ちるし、また、共存が不可能と思えるような価値観もある。端的に言えば、オウムと一緒に暮らせるか、という問題だ。

 でまぁ、どうするかね、という話である。流動性の中に非流動性を取り込み、参入離脱を選択可能な社会を作ろうとはいえるが、それもまた色々な問題をはらんでいる、等。

 宮台は、過酷な流動性を受け入れたものとして、かつてのコギャルを挙げるが、その彼女らも、流動性を受け入れることで精神的な圧力を受け、それによって傷を負っていることを認める。

 以下、本インタビューでは、主に過酷な流動性をもつ社会の中で、どうやって生きるかということについて、三者三様の談義が始まる。

 僕の考えでは、人々をある方向に向かわせるものは、最終的にはエンジョイアビリティだと思います。そこで僕が問題にしたいのは、「意味」による差異の享受可能性という問題です。

「意味」による差異の享受可能性とは、「目から鱗」というアクシデントです。「意味」がありさえすれば享受可能なのではない。「意味」の機能によって、一部に「目から鱗」的なアクシデントを体験するチャンスが生まれるということです。

 宮台は以上のように語り、また、その難しさを指摘してゆく。 一方で、それに対し、東は、以下のように語る。

東:たとえばフェティシズムってありますよね。性倒錯だけじゃなくて、いわゆるオタクでも鉄道マニアでも切手コレクターでも何でもいいんですが、彼らは同じことをいくら反復してもまったく飽きない。かといって「意味」があるわけでもない。脳内麻薬が出続けているようなものです。

 オタクというのは確かに、面白いゲームや面白い本や面白いアニメやらに囲まれていれば、幸せな人種であるから、そう見えるかもしれないが。
 だからといって、東の想定するような、脳味噌の快楽中枢に電極を埋め込んだような存在じゃない。
 同じ刺激は摩滅するし、刺激の強度を増していくだけでは、宮台の言うように飽きる。

 ここに、東の投影がかいまみえる。
 かつて宮台が、「流動性の圧力から自由な少女」としてのコギャルを夢見たように、東は、どうやら、意味の病から自由な存在としての、オタクを夢見たいわけだ。

 よって彼は、オタクが消費するものの、データベース性のみを強調する。そこには創造的な要素、作家的な要素は必要なく、単なる順列組み合わせの快楽要素だけが生産され、またそれを消費する存在がいる、と。

 だが、人間、そんな便利にできちゃぁいないのだ。オタクだけじゃない。鉄道マニアも、切手マニアも、飽きずに面白がり続けるために、どれだけの労力(消費側も供給側も)が払われていることか!

 そのへんの具体的な例については、これまで何度も書いてきたことだが、のちほど、もう少し詳しくまとめてみる。

・メモ:大衆文化のデータベース構造と、マニアにおける強度の上昇と縮小再生産。「目から鱗」の創造性