ゲームとデータベース消費

 ファウストさん及び萌え作品さんが、ゲームとデータベース消費について問題提起されたので、それについてまとめておこう。

 コンピュータゲームというものは、本来、データベース的なものである(まぁデータベース自体がコンピュータプログラム系の概念だし)。
 ゲームの中には、様々な要素が入っており、それをユーザーの入力に応じて、様々な順番で出力する、というのが、その姿だ。

 言うまでもなく、このユーザーの入力に応じて、というのが、従来のメディアと違うところで、それによって人は同じゲームをプレイしながら、その人だけの展開を味わうことができる。

 できたばかりのゲームは、そうした要素だけで出来ていた、といってもいい。

 世界最古のコンピュータゲームは、PONGというテーブルテニス系だが、これなんか、ボールとラケットと壁、という要素だけしかないが、ここにユーザーの入力と若干の乱数が加わることで、無数の展開が有り得た。そこが人を魅了した。

 このようにゲームは、同じ要素を様々な組み合わせで提示することで、違った体験を与えることができる。逆に言うと、一個の組み合わせでしか使われない要素を作るのは、非常にムダである、とも言える。それはつまり、固定された展開を前提とする「ストーリー」を排除することを意味した。

 特に、容量が限られていた頃は、ゲームでいちいちストーリーを語らせるのではなく、ゲームプレイ自体の充実に力が注がれた。昔のゲームが、みんなアクションゲームばっかりだったのは、それらが適していたからである。ポケモンを待つまでもなく、ウィザードリィ1なんかの初期RPGは、そうした順列組み合わせの中に、一回性の面白さを見出していたことは言うまでもない。
 要するに、システムが提示する組み合わせを戦略的に踏破していくことこそが、「ゲームの本当のストーリー」だ、という方向性だ。
 トレボーvsワードナーというのは、ほんの少し語られるだけでわりかしどうでもよくて、ムラマサブレードを拾うまでの血と汗の歳月こそが、その人にとってのストーリーだ、というわけだ。

 一方で、ゲームという媒体で、確固とした物語を「語ろう」という欲求、それを見たいという欲求は、常に存在した。
 スペックと容量が増すにつれて、やがて、ゲームで、一回きりの物語とその演出に、多くの容量を割くことが可能になってきたのだ。

 ここに、ゲームプレイ自体にストーリーを見出したい路線と、演出として語られる映画的な一本道ストーリーを好む路線との軋轢が生まれる。
 ウィザードリィウルティマの方向性。日本だとDQとFFの対立だ。初期DQが大枠の物語だけ与えてPCの内面には踏み込まなかったのに対し、FFは主人公キャラが、ゲームの中で、勝手に悩んだり語ったりすることで、より物語的な展開を見せる。
 このへんは、無論、DQとFF、それぞれの中でも、作品ごとに方向性が異なり、それぞれにファンやアンチがついてきたわけだ。

 PCエンジンの登場で、「ムービ」という驚愕すべき要素の発見から、この対立に大きな変化がおとずれる。
 ムービーは、多くのユーザーの心を奪ったが、一方でムービーの内容はゲーム内では変えられないので、ムービーを格好良く見せるために、よりストーリー、キャラクターは固定化してゆくことになる。

 またスペックが上がることで、「要素」自体を増やしにくくなるという面も現れた。初期DQのような2DRPGなら、モンスターや町人を増やすのも楽だが、全部をポリゴンで表現するようになると、うかつにキャラを増やすこともできない。登場キャラをできるだけ減らし、絞り込んで、一本道ストーリーに限定して作り込まないと、労力がかかりすぎて追いつかない(「シェンムー」の悲喜劇を想起されたい)。

 PSなどの次世代機ではムービー、ポリゴンは、RPGの前提となり、結果として、スペックの進化は、RPGにおいては物語性の重視と、ゲーム的なデータベース性の減少を決定づけた、と言ってよかろう。無論、そこにゲーム性を楽しむ余地だってあるわけだが、そんなものは最初からあったわけで、総体としては、一本道ストーリーを設定することで、ゲーム的な物語は減少したといえよう。一部のRPGにおいては、ゲーム性が「ミニゲーム」としてゲーム全体の端っこに追いやられることさえ起きた。

 「ポケモン」の場合、ゲームボーイという低容量ハードだからこそ、高スペックの呪いから逃れ、ゲーム的なデータベース消費を中心にすえたゲームが可能になった、と言える。いわばそれは、先祖帰りだったのだ。
 「ガンパレ」は、PSであるにも関わらず、ゲーム的なデータベースを前提とした面白い作品だが、後継がでていない。同じアルファシステムの「エヴァ2」くらいのものか。
 一連のノベルゲームは、システムエンジンを最小にし、立ち絵を使い回し、比較的コストのかからないテキストでボリュームを作る、という手法を取り、結果として、強く、物語性を打ち出すことになった。

 古いゲームマニアとしては、スペックの呪いこそが大作RPG行き詰まりの原因で、いまにゲーム的なゲームの黄金時代が来るのだ! と語りたいところだが、それは本稿を外れる。

 1989年以前、以降の、コンピュータRPGの歴史的な分析としては、上記の通りである。時代の変化とスペックの上昇は、ゲーム性の減少と、固定ストーリーの重視を生み出してきたのだ。
 なおこれが、唯一の可能性でないことは、RTS全盛の海外とかを見ればわかる。物語性重視大作RPG路線は、あくまで日本の、日本における結果であったに過ぎない。

 最近は、スペックの上昇によって、「美麗なポリゴンムービーをリアルタイム生成」することが可能になったおかげで、ゲーム的な作品への回帰の道も開かれてきた。「真・三国無双」シリーズなんかは、ストーリーよりもゲーム自体に重きを置いた作品が大ヒットした例である。

 この先、何が来るかはわからないが、少なくともコンピュータゲームの歴史は「ポストモダンにおける物語の凋落」なんて枠でくくれるものではない。それは物語を巡る大きな戦いの歴史、栄枯盛衰の歴史であったのだ。