流行としてのセカイ系

 色々書いてきたが、気分としてのセカイ系を語る場合、一番重要なのは「登場人物が、世界とか運命とかについて、仰々しく語り合う」という点だろう。「セカイ系」という名前からは、そういうものが真っ先に連想される。「エヴァ」も「ブギーポップ」もそうだしね。

 で、流行のほうだが、そもそも「個人vs世界」というモチーフは、、子供向け、特に少年物のストーリーに定番であるといっていい。

 自分の力で世界が変えられたら、という欲望は、たいていの人にあるだろうし、そこにおいて、そのへんを満たす作品が生まれるのは当たり前だ。「少年が世界を救う」みたいなストーリーは、言うまでもなく定番だ。

 一方で、そういう作品は、やはり、どこか滑稽だ。どう頑張っても非現実的だし、それ故に無理が生じるからだ。後期ドラゴンボールのインフレっぷりって何よ、とかね。*1
 そしてまた、まじめに描こうとすると破綻しやすい。敵が「世界」という強力なものになればなるほど、それと戦おうというストーリーには無理が生じて、オチがつけられず途中で終わったり、破綻したりする。「幻魔大戦」とかね。

 そのへんで、「作者が個人と世界の戦いを真面目に描けば描くほど、受け手視点で滑稽さ、皮肉が浮かんでくる」という状況があるだろう。そういう意味で、そのへんをセカイ系に入れちゃいたい人もいるだろう。

 ただまぁ、それは余談で、流行としてのセカイ系からは、ほとんどの場合「幻魔大戦」は連想されないだろう。

 さて「幻魔大戦」等が破綻した訳は、「世界」という抽象概念は、結局、描写できないというところにある。期待を盛り上げるだけ盛り上げといて、ボスが登場しないわけで、破綻が運命づけられている、と言ってもいい。

 じゃぁ「世界」を描写する方法がないのかというと、そうでもない。抽象概念を描写するのは、SFの得意技だ。「時間」という抽象概念は描けないが、タイムマシンなら登場させられる。概念をガジェット化するのはSFが長年やってきたことだ。
 「世界」や「セカイ」に関することなら、P.K.ディックあたりが古典にして専門だろう。
 インナースペース物の名作である「世界の眼」なんかは、すごく「セカイ系」じゃないかと思う。あと新井素子の「……絶句」とか。が、まぁこれらも流行という意味では外れるだろう。*2

 流行としての「セカイ系」でいうなら、やはり「エヴァ」であり「ウテナ」であろう。アニメというジャンルにも、無論、インナースペース表現は昔からあったが*3、このあたりの作品が、インナースペースを描き出す手法を進化し、流行させたあたりが、「セカイ系」のニュアンスと重なるだろう。

 ライトノベルだと、やはり「ブギーポップ」。登場人物たちが、自分のトラウマを超能力=スタンド的に可視化して戦うのは、「セカイ系」としてよくできた仕掛けだ。

 このへんは、地雷犬さんが指摘するところの「直結型セカイ系」の流れなわけで、「自閉型セカイ系」にも、そうした流れがあると思うし、萩尾望都あたりから語ると面白そうなんだけど、いかんせん知識が足りないので止めときます。

*1:といいつつ。最近、愛蔵版で読んでるけど、後期は後期で面白いなぁとワクワクしてたりします。

*2:セカイ系」という言葉には、個人が大きな世界と格闘できるという妄想自体に皮肉な視線が向けられるニュアンスがあると思う。よって、ガジェットによって前向きに世界と対峙するタイプのSFとは一線を画するかもしれない。ただ、それを言うと、否定的なニュアンスを持つ後ろ向きなSFだって数多く存在するので、やっぱり流行という要素も大きいだろう。

*3:ビューティフル・ドリーマー」はセカイ系? とかね