セカイ系再び

 ついでなので、セカイ系について、また駄文など。

 基本的にセカイ系という言葉にはきちんとした定義も意味もなく、皆が皆、適当に使っており、それが指す作品も様々に異なってるので、セカイ系をきちんと定義するのは事実上不可能に近い。

 逆に言うと、「俺的に○○ってセカイ系なんだよね〜」という用法が一番正しいともいえる。その「○○」のゆるやかな集合がセカイ系なわけだ。その中心あたりには、ほとんどの人の意見が一致する場所もあり、端っこのほうでは、「なんだそりゃ」的な作品まで含まれている。

 さて「セカイ系」の歴史とかを気にしすぎるのは、あまり意味がない。みんな歴史もなにも気にせずに、自分のセンスだけで「セカイ系」という言葉を使ってるわけだから。
 というわけで、この稿では、違ったアプローチを取る。

 さて、もしあなたが、何も知らずポンと「セカイ系」と言われたら、何を思い浮かべるだろうか?
 それをシミュレートすることで、「セカイ系」の実体を探ってみよう。

 最初に思うのは、まぁ「セカイ」とついてるんだから、大文字の「世界」と関係するお話なんだろうなぁ、というものだ。次に思うのは、それがカタカナの「セカイ」であり、その「世界」を語る中に、どこか皮肉な視点、印象がかぶっている、ということだろう。

 もしも「セカイ系」ならぬ「世界系」という単語があったとしよう。そうした作品は、多分、個人と世界の対立が描かれ、個人の成長を通して、世界を変革したり、和解したり、破滅させたりする、と言うものだろう。

 逆に言うと「セカイ系」というのは、上と似て非なるもの。
 つまり、個人と世界が対比されるんだけど、個人は成長しなかったり、世界も変わらなかったりする作品。
 あるいは世界が変革されるんだけど、その世界は、本来の世界と似て非なる、どこか偽物で、小さな閉じた「セカイ」だったりする。
 そんな作品である、と言えるだろう。

 物語は、本来、内的世界(個人)と、外的世界(世界)を近づける機能がある。その機能に、ツッコミを入れるのが、セカイ系と言っても構わない。

 「セカイ系」の、一応、中心近くにあると思われる「エヴァ」と「ブギーポップ」を見てみよう。

 「ブギーポップ」の場合、コスプレして、ご近所で悪の改造人間と戦っているという、非常にローカルな活動が、なぜか「世界の命運」やら「運命」やら「人類の可能性」とかと短絡される。この場合、ブギーポップにでてくる「世界」は、本質的にはご近所友達周辺の「セカイ」でしかない、というわけだ。

 「エヴァ」の場合、シンジは、「世界の命運」を背負わされる。が、その「世界」は、第三新東京市という作り物の「セカイ」でしかない。また、シンジは、そうした試練を経て、結局、セカイを変えるに至らず、本人も成長しない*1

 でまぁ、ややこしいのは、「個人と世界を近づける機能」は、ほとんどの物語が持っている、というかむしろ、物語の本質的な機能だったりする。一方、そこに「皮肉」を見出すのは、読者の主観だったりするので、その人の趣味と気分で、どんなところにも「皮肉」はあり得る。
 よって、広く見れば、あらゆる物語が「セカイ系」に入りうるし、実際、入っちゃってる。つまり、定義としては破綻している。

 最初にも書いたが、ここで分析してるのは、「セカイ系の受け取られ方」であって、定義ではない。「セカイ系」は、定義というより気分、流行なのだ。

*1:いや、あれは成長だ、とか、世界を変えた、という意見も成り立つが、従来の意味の成長、変革を否定してるのは間違いない