今月のゲームラボのコラムは、オタクとオウム真理教について。

 東の論点は2つ。

1.オウム真理教は、オタクに対して大きなトラウマを与えた。オウムの中のオタク的な要素に自分と近いものを見出し、「俺も、ああなっていたかもしれない」という恐怖をオタクに与えた。
2.それによって、オタクな表現は「反社会的」なものから「非政治的」なものへと変わった。

 まず1番から。オウムがオタクに与えたトラウマは、無論、存在する。様々な人間が、様々なレベルでトラウマを受けたであろう。直接的な恐怖から否認も含めて。

 ただ、2番は飛躍が過ぎる。何の根拠もデータもなしに、こんなことを言われても困ってしまう。
 そもそもオタク文化の「反社会的な表現」とは何か?(まさか愛國戦隊大日本とか言わないよな)。それらは、本当にオウムを境に減少したのか? 減少したとして、それはオウムによるものなのか? 他に説明はないのか?

 普通に思いつくのは、これはオウム・オタクの問題ではなく、単に世代全体の問題なんじゃないか、ということだ。
 昔の若者は、反体制に親近感を感じていたが、最近の若者は、政治に興味を失ってきている。オタクも、その部分集合である、と考えたほうが百倍筋が通る。

 そういう単純で基本的な説明を無視し、特殊な事例を一般化したまま、話は進む。

それを象徴するのが世紀転換期に起きた「ギャルゲー運動」(佐藤心)であり、その果てにあるのが、現在のような萌えアニメの隆盛であり、「セカイ系」の台頭だ。このような面でも、オウム真理教事件は、僕たちの新しい日常の出発点にある出来事なのである。

 印象的なキーワードをちりばめて、フィーリングで歴史を語るだけなら、誰でもできる。しかし、土台を固めない議論には何の意味もない。

 ここでの土台の甘さにツッコミを入れるなら、なんといっても「セカイ系」だ。

 この日記でも書いたが、「セカイ系」という言葉には、決まった定義もなく、多くの人がフィーリングで適当に語っているだけである。
 つまり、留保なしで、「セカイ系」が「台頭」してるって言われても、それがどんな作品を指してるのかが、さっぱりわからないのだ。*1

 言葉の定義をきちんとする人だったら、「セカイ系」という用語の語源や使われ方をきちんと押さえた議論をするか、あるいは、コラム内での明確な定義を打ち出すはずである。
 ここで、東は、その両方ともしていない。ここじゃなくて他の著作で語られている……という心配は無用だ。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000066.html

そもそも、僕は、ネットの外、すなわち活字媒体でセカイ系に触れたことはほとんどありません。「セカイ系」という言葉を使ったことすら、活字媒体では、このあいだのゲーラボの座談会での発言(しかも斎藤環氏が僕に質問したのへの応答)ぐらいしかないと思います。
(中略)
PS
とはいえ、そろそろセカイ系については書きます。実際、今度のユリイカの押井論やゲーラボのコラムは一瞬セカイ系について語っています。

 以上のように、東自身が書いている通り、東はセカイ系には全然触れていない。触れていない以上、定義もしていない。

 定義もしていない用語で、「セカイ系が台頭しているオタクの状況」というのをイメージ先行で作り上げ、それを押しつけようとするのが、今回のコラムなわけだ。

 これが政治的な行動であれば、そうしたイメージの押しつけに、私は反発する。*2
 無自覚にやっているなら、学者としては犯罪的な怠慢であり、致命的にセンスが悪いと言えよう。

 東が、これから、どちらの道を歩むのか、あるいは、もう少し別の方向を選ぶのか。次回も期待したい。

*1:ついでに言うなら、いわゆる「セカイ系」の作品が、それほど売れてるのか? という問題もある。

*2:けど、商売人としては、その技術を尊敬するかもしれない。今回の文章の流れは、悪くなかった。