共同討議 未来にキスを

 元長本人は、「未来にキスを」は、他のゲームと同じ普通の作りだというが、他の3人が「んなわけないでしょ」とつっこむ。
 元長は、自作について言及するのを避ける一方、他の3人が、無闇に持ち上げるという気持ちの悪い構図になっている。

 元長からすると、ゲームに感情移入させ、仮想的なコミュニケーションを体感させる手段という意味で、ノベルゲームは、皆、一緒。自作のゲームも、その手段の一例である、ということだろう。

 さて、「未来にキスを」を、東たちは批評性の高いメタエロゲとか評価するわけだ。

 で、この作品なんだが、非常に皮相的に語れば、以下のようになると思う。(「未来にキスを」、ほか、元長作品をプレイしていない人は、話半分以下で聞いてほしい)。

 エロゲーというのは、あらかじめ決められてるテキストを読み出しているだけである。本来、そこに、知性的なやりとりは存在しない。
 しかし、そこをごまかして、仮想的な「キャラ」と、お話ししている。少なくともゲーム中くらいは、そんな気分にならないといけない。

 そうするための方法論は様々だが、「未来にキスを」は、「ディスコミュニケーションこそがコミュニケーションだ」という屁理屈を生み出した。
 人間同士でもわかりあえるコミュニケーションなんて存在しないし、別になくたっていいんだ。だから、ディスプレイの向こうのキャラとのディスコミュニケーションだって、本物のコミュニケーションなんだ、という理屈である。

 そのへんを、あっけらかんと、明るく、かっこよく、しかし、どこかにひっかかる言葉で言いくるめる手管は実にうまい。それによって信者的なファンも獲得している。そのへん、正直、あざとくて苦手なとこだったのが、ここまで自覚的にやっているとわかったのは収穫だった。

 元長は、これを別に批評的行為として行っているのではなく、つまりテーマ自体にこだわっているわけではなく、単に、プレイヤーをゲーム内に感情移入させるための一手段として持ってきた、と主張する。
 その様子は、かっこいい。