Fate

 その後、AIR話を経過して、Fateに。

東:(中略)ところが、『Fate』にはそういう工夫が一切ない。というか、ゲーム性がほとんどない。(中略)それじゃあ逆に、プレイヤーから自由度を奪うことがなにか作品のテーマに深く関係しているかというと、そういうわけでもない。
 そもそもゲームって、プレイヤーにできるかぎり自由度を与えるのが善だというジャンルでもあって、美少女ゲームは、そこに単一のエンドがある物語を乗っけるために、いろいろアクロバティックな手法を編み出してきたわけじゃないですか。『Fate』は、そんな問題意識なんか一切なく、美少女ゲームの形式だけ借りて、マンガやアニメをシミュレートしてるだけ、という感じがした。
元長:分岐としてのゲーム性を求めるものでもないと思いますけど。(後略)

 「できるかぎり自由度を与えるのが善」って、バカが好きな思想だよなぁ。んなわけないじゃん。
 少なくともコンピュータゲームの場合、自由度は必須概念ではない。
 コンピュータゲームの快感の元は、入力に反応して、音やら光やらが出るというインタラクティブ性にある。

 例えば音ゲーを考えてほしい。あれってのは、譜面通りにボタンを叩くだけの、基本的には自由度ゼロのゲームだが、だからといって、あれがゲームじゃないか、というと、違う。むしろ、あれこそがゲームの快感の本質に近い。

 ノベルゲームにおいても、実はクリックすることによって画面が反応・変化する、アクションゲーム的な快感が重要な位置を占めている、というのは、元長が別コラムで分析している。

東:『ガンパレード・マーチ』では戦いから降りることを選択できる。そもそも、本当の悩みどころは、ガンダムに乗るかどうかの選択にあるわけで、個々の戦闘で左に飛ぶか右に飛ぶかなんて選択は悩みとは言わない。そういう意味では、『Fate』の主人公は最初からガンダムに乗っているわけで、うまくいかなかったらバッドエンドというゲームでしかないわけでよ。これはたいへんな後退なんじゃないか。

 じゃぁ、たとえば、「グラディウスV」では、主人公は最初からビッグバイパーに乗っていて、前に進むしかない。うまく行かなかったらゲームオーバーというゲームでしかないんだけど、これは、たいへんな後退なんですかね?

 ゲームにおける自由度信仰を無意味に突き詰めるとそうなる。
 ガンパレやGTAの自由度の高さは面白いし、美少女ゲームにおいても、自由度を作って面白くするシステムの工夫があってもいいが、それを唯一絶対と崇め奉るのは、間違いだ。*1

 音ゲーにおいて譜面を押すのが楽しいように、ノベルゲームにおいても、クリックの一つ一つが快感を生むことが、一番のゲーム性なのだ。テキストと絵と音楽の組み合わせ。そのタイミング。それらが脳内で組合わさること。その計算が、一番重要な部分で、「ルート分岐」だけでゲーム性を語るのは、片腹痛い。

東:ササキバラさんは、ノベルゲームとはプレイヤーが責任という快楽を感じるゲームだと定義していたわけだけど、ここにはそんな高級な快楽は存在しない。

 わかってないなぁ。
 まず「責任という快楽」は、高級でもなんでもない。それはメロドラマを見て泣くのと同じ、生理的なボタンをどう押すかということだけのことだ。そして、疑似的な責任を感じさせる装置には、「自由度」も「ルート分岐」も関係ない。

 なぜなら、責任感を感じさせる仕掛けには、パズルや推理は必要ないからだ。
 極論するなら、選択肢はたった一つでいい。

「この娘を守りますか? Yes/No」

 これで十分だ。無論、Noはバッドエンド直行。
 Yesを押すしかない。そんなことはわかりきっている。 それでも、それまでの描写の積み重ねで、ここで「Yes」をクリックする時に、緊張する。「責任という快楽」を感じる。
 それこそが、ノベルゲーム(あるいは恋愛ゲー)の本質だ。

 『Fate』にルート分岐がないのは、そのためだ。どういう順番でプレイヤーに情報を与えるかをコントロールし、プレイヤーの心理状態を把握することで、最適の感情移入を行う、というシステムだ。完璧とはうまないが、うまく機能している。

 東は、「『Fate』の主人公は最初からガンダムに乗っているわけで、うまくいかなかったらバッドエンド」だという。
 これは、違う。
 『Fate』において、プレイヤーは、ガンダムに乗ることを(ヒロインを守ることを。正義のために戦うことを)自分で選択する。それは『Fate』の非常に重要な部分だ。

 無論、ガンダムに乗らないという選択は、事実上は存在しないのだけど、それでも、プレイヤーは「乗る」をクリックする、その儀式こそが重要なのだ。*2

*1:シェンムーとかな

*2:逆に言うと、ガンパレの場合は、「右に飛ぶか」「左に飛ぶか」の選択肢こそが重要になる。なぜなら、その結果が、友軍の(=クラスメートの)生死を分けるからだ。囲まれた滝川を助けるために、無理に敵軍の中に突っ込もうとする瞬間に、「責任感」が生まれる。逆に言えば、そういう緊張感を前提に、整備員プレイやナンパプレイがあるわけで、「ガンダムを降りられるから自由度が高くてエライ」というのは、間違っている。実際、ガンパレプレイして、「パイロットプレイをするかどうか」で、本当に悩むプレイヤーなんていない。「絢爛舞踏達成したから、今回は整備員プレイで」とか、そういうレベルだろう。それに対し、「滝川機を助けるために右に飛ぶか左に飛ぶか」は、本気で悩むポイントだ。偉そうに言ってるけど、ガンパレプレイしたのか?