美少女ゲームの想像力

東:(中略)美少女ゲームってどんなポテンシャルがあるのかって、なにも知らない人から訊かれたとき、とりあえず『AIR』と『未来にキスを』を渡すと少しわかるかな、という感じがするんですね。この二つの作品は、美少女ゲームがどういう想像力を備えたジャンルで、なにができてなにができないのか、すごく明確に示してくれる。
 たとえば、『月姫』や『君が望む永遠』は、僕はけっこういいゲームだと思っているんだけど、あれを渡しても、美少女ゲーム特有ではない想像力を美少女ゲームの可能性だと勘違いされるような気がする。『君が望む永遠』なら恋愛ドラマだし、『月姫』なら伝奇やアニメの想像力ですね。

 「バジリスク」というマンガがある。
 山田風太郎の「甲賀忍法帖」のコミカライズである。
 俺は、このマンガが好きだ。

 「バジリスク」というタイトルだけ聞いた時は、山風のネームバリューだけ使って、好き勝手なマンガを描くのかな、と、不安になったものだが、読んでみて驚いた。

 登場キャラクター、プロット進行とも、原作に、かなり忠実なのだ。ほとんどトレースしていると言ってもいいくらいだ。*1
 そして、その内容が極めつけに面白かった。

 「バジリスク」作者のせがわまさきは、山田風太郎が文字で表現したものを、絵と字で、コマで、ページに移し替えた。
 マンガの「想像力」、マンガの可能性というのは、ここに現れていると思う。

 要約したプロットやらキャラの設定等といったものは、作品を作る上で、ある意味、小さなものでしかない。ジャンル特有の想像力というのは、それを実際に、字や絵、あるいは画面に落とし込む時の、その手法、その表現手段を前提としたものだと思うのだ。

 東は、「美少女ゲームの想像力」と言った時、プロットレベルまでしか考えが及んでいない。

 「君が望む永遠」は、プロットレベルでは、確かに、恋愛ドラマと同じだ。
 「月姫」は、伝奇小説、アニメ、マンガの要素を詰め込んだストーリーだ。

 だが。それだけで、「可能性がない」「美少女ゲーム特有の想像力ではない」と言ってしまうのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。「物語」「ストーリー」なんてのは、ほんの表層的な部分でしかなく、「想像力」というのは、もっと深いところにあるものだ。

 恋愛ドラマを、ゲームという形で、自分を主人公として体験してみること。それは、テレビドラマを見る感覚とは全く違う体験であり、その体験こそが、「君が望む永遠」をヒット作にしたのではなかったか。もっといえば、それこそが「ゲーム的想像力」そのものではないか? 同じことは、無論、「月姫」にも言える。

 同じストーリーを本やドラマやアニメを通して鑑賞することと、ゲームとして体験すること。その感覚の違い。その感覚を与えるために動員される様々な表現手段。それこそが、目を見開いて考えるべき「美少女ゲームの可能性」ではなかろうか。*2

 「AIR」や「未来にキスを」は、確かに、個性的な作品群であり、美少女ゲームのある種の極であろう。そこから見えるジャンルの可能性というのも確かにある。

 だがそれは、美少女ゲームを代表するものではないし、美少女ゲームに「なにができてなにができないのか」を示すような作品ではないと思う。

 知り合いがマンガを読みたいと言った時に、俺が、読ませるとしたら何だろう?
 もちろん、知り合いの趣味と興味範囲に合わせて考えるだろう。
 それは「バジリスク」かもしれないし、「はちクロ」かもしれないし、「グラップラー刃牙」かもしれない。
 これらの作品は、マンガとして面白いし、ということは、マンガの可能性を示していると思う。

 だが、東の考えだと、これらの作品の「想像力」は、他のジャンルでもありきたりだから、わざわざ他人に読ませるべきではない、ということになる。「バジリスク」は山風で、「はちクロ」はドラマで、「グラップラー刃牙」は、格闘小説で。だから、これらを渡すと「マンガの想像力」を誤解されるという。

 そうすると、なんだろ。マンガにおいてのみ発展したストーリー形態。つげ義春とかでも読ませるんだろうか。
 それはなんか違う気がするんだよな。

*1:もちろん補完やオリジナル解釈の部分もあるが、そうじて、本当に驚くほど原作通りだった。

*2:逆に言うと、AIRのストーリーを、第三部までベタに小説に落とし込んだら、その時点で、AIRは、「美少女ゲーム特有の想像力」ではなくなる、ということになるのだろうか? 当然ながら違うだろう。AIRが、主人公=プレイヤーの無力さを描く時、それはゲームというメディアだからこそ有効である。重要なのは、AIRのテーマ性だけでなく、それがゲームという形式の中で表現されていることだ。それと同じことが、「君が望む永遠」他にも言えるということだ。