細野さんにいただいた記事についてである。
http://d.hatena.ne.jp/hhosono/20050119#p1
http://d.hatena.ne.jp/hhosono/20050120#p1

 おそらく、東さんは社会や文化に対する大雑把な見取り図を作り、そこに新たなネットワークを付け加えるという戦略、つまり評論家的方法論を踏まえた上で批評家的方法論を展開するという形で議論を展開する人なのだ。というより、東さんの仕事は自ら明言しているように「両者の等質性を明らかにしたうえで、メインカルチャーの限界をオルタナティブから照射していく」ものであり、「主流文化と接続できる枠組みを提供しつつ、同時にその枠組み自身も攻撃できるようなツールを作る」もので、そういう論理モデルなのだということを念頭に入れるべきである。

 しかし、オタクによる東浩紀批判の多くは書誌学、あるいは訓古学的な研究者の立場に立脚している。東さん自身はどうやらそうした精緻な研究には興味がないみたいだし、オタクの多くは上記のような解釈のモデルの違いに気がついていない。これがオタクによる東浩紀批判の不毛さの最大の要因である*2とぼくは思う。

 細かい揚げ足に終始した、意味のない批判が、オタクの側からされているというのは、まぁ、あると思います。
 一方で、私から見て、東氏の認知が、基本的な知識が足りていないため、「大雑把な見取り図」として全く機能していない場合が多いですね。

 大雑把な見取り図を描くには、批評する文化の全体の流れを押さえておく必要があるし、基本的な教養なしの、一知半解で「見取り図」を提示されたら、それは、土台のしっかりしていないものになるのは言うまでもないです。

 オタクの側の不毛な揚げ足取りも、「この程度の基礎知識を知らないやつが、全体の見取り図なんてものを書けるわけがないだろ!」という憤りも含んでいる、とは言えるでしょう。

 まぁ、このへんは、各論の問題なので、東氏の実際の主張についての細野氏の検証・批判が始まるのを待ちたいところです。

 さて、東浩紀id:hazuma)さんは(出展元を忘れてしまったのだが)「日本の文化で、アメリカにおけるハッカーカルチャーに相当するものはオタク系文化だ」ということを言っていた。これは重要な指摘であると同時に、東さんがオタクに嫌われる原因にも関係していると思う。

 オタクは、とかく自己卑下しがちである。しかし、その自己卑下は他人に指摘される前に自分で自分の短所をさらけ出すことでか弱い実存を護る行為でしかなく、オタクの自己意識は実はかなり高い位置に置かれている。つまりは否認なわけだ。

 そうした超越性に支えられた自意識、仲間意識の産物である(と自分達で思っている)OTAKU文化が東浩紀という他者によってハイカルチャーという別の文脈に変換されることこそが、オタクが東浩紀を嫌う最大の要因なのではないか。

 まず補足しておくと。
 オタクに限らず、自発的な集団について、第三者が「別の文脈に変換」すると、たいていの人は、嫌いますよ。

 例えば、野球ファンやらサッカーファンやらを、香山リカ的に「愛国心」の文脈で再定義したのを、当人に見せたら、いやがられると思います。趣味的な集団には自意識があるわけですし、それを、違う文脈で再構築すれば反発される、というのは、別にオタクに限ったことじゃありません。

 次に。
 「ハッカーカルチャー」と呼ばれること自体は、オタクとしての俺は、なんら反発を感じません。むしろ、いいこというじゃんと思う。細かい点ですが、細野さんは、何か勘違いしておられるかもしれない。
 ハッカーコミュニティというのは、オープンソースLinuxやらperlやらApacheやらを作って、コンピュータ業界全体を進歩させてきた集団なわけですから、日本のオタクがLinuxに相当するものを作ったかどうかはともかく、比較されることは、悪くない気がします。

 オタクはプレおたく世代の作品や非オタクの作品を何度もパロディ化してきた。多くの作家はオタクによるパロディに「自分の作品を汚された」とか「創作に伴う苦労を経ずして作品を作ろうとしている」という嫌悪感を露にしたが、上記のような超越的自意識を持つオタクはそれ故に益々パロディに熱中してきた。

 しかし、東浩紀という更なる超越的他者にパロディ化、ハッキングされた時にはそれまでの否認的態度から一気に否定的態度に転じた。

 「多くの作家」が、パロディに拒否反応を示したかどうかは、また別の話です。
 「エロパロは嫌だなぁ」とか「金儲けに走るのはどうよ」という人はいますが、純粋にファン活動で、自作を使われることに大して、「創作に伴う苦労を〜」という人は、案外、少ないんじゃないかという気がしますね。

 さて、東氏の評論は、単なる「パロディ化、ハッキング」なんですか?
 だとしたら、単なるパロディに過ぎないものを、「これが貴様の現状に対する批判だ!」と大上段に振りかぶられたら、ムカつくのは当然でしょう。
 単なるパロディでないのなら、「自分がパロディ化されると怒る」という見方は、不公平だと思いますが。

 例えば、「げんしけん」というオタクパロディな作品があったとして。あれはパロディとして楽しめます。一方で、「げんしけん」を、オタク文化に対する正当な批評だ!と位置づけられて、勝手に分析が始まったら、「それはちょっと……」というのは出てくるでしょう。
 オタクが楽しむ二次創作も、多くは、自作をパロディと位置づけ、原作への距離感、敬意を表しています。

 また、東さんは東大法学部に現役合格し、弱冠20歳の若さで柄谷行人浅田彰に認められ、「ソルジェニーツィン試論」で華々しくデビューし、博士論文が新潮社から『存在論的、郵便的』という書名で発行され、三島賞候補になるなど、エリート・コースを歩んできた言論人である。

 この事はオタクだけでなく、東浩紀を批判する人の感情的反発を惹起している。*2つまり、東浩紀をめぐる批判は、文系男子の階級闘争という側面があるわけだ。

 これに関しては、まぁ、そうですか、としか言いようがないなぁ。オタク側からの批判で、それが反映してる例は、あまり見たことがありません。

 ちなみに、東大卒エリートへの感情的反発ということだけでいうなら、「文系男子」に限らず、理系や、女子や、その他色々でもありそうなものですが。