引き続き、細野さんにいただいた記事についてである。
http://d.hatena.ne.jp/hhosono/20050120#p2

 ぼくの書き方が適切でなかったことによるものですが、上記の文章ではOTAKU文化≒ハッカー・カルチャーであることと、東さんによるある種のハッキングに対してオタクが怒ったという話は別個のものとして考えてください。望月さんがコンピュータの比喩を使って説明したように、OTAKUたちはアニメ、マンガ、ゲームといった文化を、主として記号的操作によって多様性のある豊かなものにしてきたのだと思います。

 ハッカーカルチャーの話とは別というのは理解しました。
 それはさておき、「記号的操作によって多様性のある豊かなものにしてきた」というのは、どういう意味でしょう?
 「記号的操作」というのは、意味が広すぎて、意図していることがわかりません。
 たとえば、文字で表現されるものはすべて「記号的操作」といえなくもないし、数学で新たな定理を証明するのも「記号的操作」でしょう。
 記号的操作を伴わない文化というのは非常に考えにくいので、何が言いたいのか、よくわかりません。

 しかし、そうした現象と、東さんによるある種のハッキングに対してオタクが怒ったという話は違います。上記の文章でのオタクの超越的自意識の下りにつながりますが、東浩紀という(オタクたちから見て)非オタクによってオタクたちの行動や文化を超越的文脈変換作業をされたことに対する怒りで、それまで散々パロディという文脈の変換作業を行っていたオタクたちが、自分たちがその対象になった時に怒る権利はあるのだろうか、ということです。

 オタクが、パロディ同人誌を作ること。
 オタク文化を、別の観点から批評すること。
 確かに両方とも「文脈変換作業」と言っていえないことはないですが、だから、なんだ? というところはあります。

 ここで細野さんがおっしゃっていることは「オタクは同人誌で二次創作したから、東氏がどんなオタク論を言っても怒る権利がない」ということになりますが、これって、どう考えても変じゃないですかね。

 そもそも、オタクが怒っているのは、別に「文脈変換作業」をされたからではなくて、その批評の内容について怒っているわけですし。

 二次創作を不快に感じる人はいるでしょうから、二次創作をある種の暴力と定義してもいいですが、だからといって、批評されることを甘んじるべきだ、とは、言えないでしょう。この二つは、明らかに種類の違う暴力ですから。

 具体的に言うと、マンガジャパンという大御所マンガ家による団体がありますが、この団体に所属している大御所マンガ家たちはパロディ同人誌に対してかなり否定的です。おそらく、彼らにとって同人誌と言えば石森章太郎らによる創作同人誌『墨汁一滴』のようなものなのでしょう。

 できれば、ソースが知りたいです。

 この点に関しては、主として所謂現代系オタとオタクではない人文科学系大学院生などを想定しています。またそうした人以外でも、とかくオタクを含めた文系男子には知識の「濃さ」をひけらかしたり、他の面に自信が無いために知識偏重主義的になっている人が多く、学歴コンプレックスが強いとぼくは思います。

 ぶっちゃけて言うと、2ちゃんねるの東スレ(特に哲板)はたまにクリティカルな指摘があるものの、多くはろくでもない悪口雑言ばかりで、「こいつら、自分の将来の不安をここでぶちまけているんだな……」と思うのです。

 2ちゃんのスレというのは、東スレに限らず、コンプレックスに基づいた悪口雑言が多いので、サンプルとしては不適切かと。また、そうしたスレに書いている人が、「文系」かどうかも、わかったもんじゃないですし。

 学歴コンプレックスがあるかないかという議論は不毛です。学歴コンプレックスから東氏に文句つける人も、いるかいないかといえば、そりゃいると思いますが、いちいち議論の対象にするほど一般性があるかというと、疑問です。

http://d.hatena.ne.jp/hhosono/20050121#p4

 すいません、説明不足でした。ここでいう「記号的操作」というのは、キャラクター表現における手塚治虫の漫画記号論説や東さんが『動ポモ」で解説した萌え要素のようなものを指します。

 まだ説明不足です。
 さて、オタクジャンルに限らず、エンターテイメントのほとんどは、記号に分解できます。
 例えば、連ドラでも、お笑いでも、様々な記号に分解できるし、そうした記号を再構成したり、新たな記号を発掘したりしながら、新作が作られてくるわけです。

 というか、人間が新たなものを作る過程というのは、即、旧来のものを要素分解し、その要素を再構築する中に創造性を発揮すること、と、言い換えてもよいくらいです。
 ただ、細田さんは、記号的操作が、オタク文化に、よく当てはまるとお考えのようです。その根拠はなんでしょう?

 望月さんのように、ある論理を持って、東さんの理論に反証することはいいのです。というより、寧ろ積極的になされるべきだと思います。また、ここでも言葉不足でしたが、望月さんの要約による、「オタクは同人誌で二次創作したから、東氏がどんなオタク論を言っても怒る権利がない」という文脈よりは、オタクはシニカルにメタなゲームをやっているつもりでも、東さんの活動に対してコンスタティブに「ただ怒るだけ」では二律背反的だと思うのです。東さんの活動に対して、「は〜ん? まあ、そうかもしれないね〜」とシニカルな態度を取るか、望月さんのように、一定以上の根拠と具体的な理論モデルを持って反論するなら理解はできるのですが。

 オタクの好きな作品の中に、「シニカルな、メタな視点の入ったもの」が多い、とは言えるかもしれません。
 が、それは、オタクが、「シニカルにメタなゲームをやっている」ということでは、ありません。

 例えば、オタクは「ビューティフル・ドリーマー」が好きかもしれませんが、だからといって、「一義的な現実を否定し、主観的な夢の重なり合いとして世界を捉えている」というわけじゃないです。

 ですから、フィクションの好みに対して、現実の態度を一貫させるというのは、おかしいです。

 それは「ミリオタなんだから戦争を受け入れろ」とか「格闘オタなんだから、売られた喧嘩は買え」というのと、同レベルの論理です。

 前に細田さんは、

オリジナリティへの断念と、全ての事象に対して斜に構え、ノリつつ覚め、覚めつつノることを是とするオタクの(そして新人類の)ダンディズムによるところが大きい。

 と書いてましたが、別に、そんなこともないです。

 内輪ネタは楽しいし、自虐ギャグは笑えます。物事をひっくり返すことの面白さも知っています。
 けれど、それらは別に「普通に面白いこと」「普通に楽しむこと」を、はなから否定してるわけじゃないのです。

 「オリジナリティを断念」したことはないです。オリジナリティのあるものは、素直に賛美します。
 「シニカルにメタなゲーム」はやってません。ベタな作品に、思い切り陶酔する楽しさも知っています。

 しかも、先に書いた通り、それらは、「作品の好み」です。「こういうジャンルの作品が好きだ」ということに他なりません。

 それに対し、現実に批判を受ける、というのは、全然別の話です。
 (少なくとも主観的に)間違いだらけの批評をされたら、怒るのは当然ですし、それが二律背反というのは、変な話です。

 また、望月さんは「だからといって、批評されることを甘んじるべきだ」と仰っていますが、オタクという人格類型/準・社会集団あるいはOTAKU文化を否定されることに甘んじるべきではないが、「批評」されることについてはオタクは引き受けるべきだとぼくは思います。

 無論です。「批評されること」自体は、受け入れるべきです。
 何度も書いてますが、「批評されること」自体ではなく、「批評の内容」が問題ないわけです。
 (少なくとも主観的に)明らかに間違った事実に基づいた、歪んだ枠組みで批評されたらから、怒っているわけです。

>「父になることを断念した青少年としての文系男子」

 前からずっとひっかかってるんですが、なんで「文系男子」なんですか?
 理系男子や体育会系男子でも独身(あるいは社会的な父権から遠いもの)は多いと思いますが、彼らは父になることを断念しないんですか?