記号操作について、その2

http://d.hatena.ne.jp/hhosono/20050122#p1

 マンガについて考える時、以前にも言及しましたが、それこそ手塚治虫がマンガ記号論を提唱しているように、表象そのものとしてのマンガにおける象徴的記号性は多くの人に指摘されています。ぼくはその文脈で「記号」という言葉を使い、それが別に学問用語やマンガ論に対してさして知識がない人でもそういう文脈で読めるだろうと思って使ったのですが、先にも書いたように、どうやら望月さんはそういった意味合いでは「記号」という言葉を使っていない。

 細野さんは、「記号操作がオタク文化を豊かにした」と、言っていました。
 記号というのを、単なる外見記号の意味に取った場合、それを操作して、何かが豊かになる、というのは、意味がとれなかったので、もう少し広い意味での「記号」かと思っていたのですが、違ったようですね。

 では、もう少し具体的に見てみましょう。

 さて。そもそもキャラクターの外見というのは、何のためにあるのでしょうか? 様々なディフォルメパターンから、特定のパターンを選んで構築する基準となるのは、何でしょうか?
 それは、その漫画において表現されるテーマなり情動なりを伝えるのに適しているかどうかです。
 キャラクターというのは、表現を表すツールなんですね。
 初歩的なセオリーでは、ギャグっぽいストーリーなので、きついディフォルメ、シリアスだからリアルより、ほのぼのだから丸い線、アクションだから尖った線、とか、いろいろあるわけです。

 そうした手法の内、認知度が高いものが、一般に「記号」と呼ばれているものです。
 例えば、「眼鏡」という記号は、そのキャラが理知的であり、心に壁があることを示す手法と結びついて、一般化したわけです。

 その意味で、キャラクターにおける記号、そして記号操作というのは、「手法」と深く結びついています。

 さて、漫画というストーリーを盛り上げるツールは、キャラクターの外見だけにとどまりません。
 コマをどう割るか。キャラクターを画面の中に、どう配置するか。どんな風にカメラを設定して、どんな風にライトを当てるか。これらすべてが、ストーリーを盛り上げるツールとなります。
 荒木飛呂彦の、緊張感を煽るパースの付け方は、「ジョジョ立ち」と認知されています。
 特撮映画では、実相寺昭夫監督のカメラワークは、「実相寺アングル」として特撮ファンの間では認知されてますし、中野昭慶の「ショーケー爆発」も同じく。

 そうした無数の演出ツールの連携によって作品は作られているわけで、記号操作がオタク文化の多様性を作った、というのなら、そのレベルまで意識しないと無意味でしょう。

 単なる外見記号を記号操作したところで、オタク文化の多様性には、たどり着けませんから。

ただ、その種の視覚的記号操作での訓練を訓練として提示したジャンルはマンガ以外にはなかったと思うし

 特定の作品を記号に還元し、その記号を入れ替えて新たな作品を作ったり、その効果を確かめたりする手法、訓練は、ほとんどあらゆるジャンルで、あると思います。

 例えば、音楽ならジョン・ケージを持ち出すまでもなく、メインフレーズを同じにして、アレンジだけ変えたり、あるいは、その逆を試す、というのは、一般的でしょう。
 文学においても、文体模写パスティーシュなどは、記号操作による訓練です。

 漫画以外の絵画でも、当然、そうした記号操作はあるでしょう。

萌え要素」という用語がのように、キャラクターが記号表現の集積体でしかないということが作り手と受け手の両方に認知された文化は他にはないと思います。

 さて、キャラクターが記号表現の集積体「でしかない」というのは、細野さんの勘違いです。
 例えば、どんな漫画でもいいですが、その人のキャラを、細野さんの言う意味での記号に還元してみてください。

 猫耳+メイド服+三つ編み、とかなんとか。

 それを次に、別の人に描いてもらってみてください。明らかに違うキャラになるでしょうから。
 しかもそれらは外見だけであり、「キャラクター」としての構成要素……性格やら動きやらストーリーの中での位置づけやらにも、また、無数の違いがあります。

 一個のキャラクターを構成している無数の要素の内、一般消費者が理解する「記号」というのは、非常に表層的な記号でしかないわけです。
 作り手はそれを分かっているでしょうから、キャラクターが「記号表現の集積体でしかない」という認知は存在しません。

 萌え要素を集めただけでキャラができる、と、思っているのは、実際にキャラを描いたことがないか、あるいは、敢えてシニカルな態度を気取っているかのどちらかです。

 一本の描線だって個性があるのです。「記号表現の集積」だけでは捉えきれませんよ。

ここでいうラディカルさは、「「萌え要素」という概念が発生するほどまでにラディカルな記号表現の集積体としてキャラクターが意識されているジャンル」と記述したように、萌え要素そのものがラディカル(≒根源的)なのではなく、「萌え要素」という概念自体が明確な発明者が示されることなく、半ば自然発生的に提出されたこととその過程のことを言っているわけです。

 萌え要素という概念が自発的に現れることは、別に、ラディカルでも何でもないと思いますよ。どのジャンルでも普通にあることです。

 エンターテイメントにおいて、ジャンルが認知されるに従い、そのジャンルの特徴が、記号的に認知されます。そこから、そうした記号を拡大したり、あえて否定したり、自己パロディを作ったり、と、いったことが始まるわけです。

 それは、アニメや漫画に限らず、音楽だろうが実写映画だろうが、あらゆるジャンルにおいて行われることです。
 音楽において、テクノだハウスだトランスだ、と、様々なジャンルが定義され、「それっぽい」モチーフが生まれると同時に分解され、別のジャンルに取り込まれたり再定義されたりするのは、萌え要素発生の過程と同じでしょう。

 そこにおいて、アニメや漫画の場合は、外見的な特徴が、わかりやすい記号として存在している、というだけのことに過ぎません。