記号操作について、その3

 今回の望月さんの文章を読んでいて解ったのだが、ぼくと望月さんで共通の見解があるにも関わらず、議論の展開の過程でズレが生じ、それが対立に見え、議論があらぬ方向に向かっている部分があるため、一度、時間を取って熟考し、望月さんの文章に対して、ぼくが「批判」したいと思っている最大のポイントをまとめて公開することにしようと思う。

 了解です。それはそれでお待ちしてます。

 さて、望月サイドからの見解だと、細野さんの言ってることが抽象的すぎて、何を言いたいのかわからない、という点があります。
 そこで、お聞きしたいのは、具体例です。

OTAKUたちはアニメ、マンガ、ゲームといった文化を、主として記号的操作によって多様性のある豊かなものにしてきたのだと思います。

 これについて、具体例を述べてください。
 例:「A」という作品は、「a1」「a2」「a3」という記号を操作することによって生まれた。このように、オタク文化は豊かになった、等。

萌え要素」という用語のように、キャラクターが記号表現の集積体でしかないということが作り手と受け手の両方に認知された文化は他にはないと思います。

 これについて、具体例を述べてください。

 例:作品「B」の「C」というキャラは、「b1」「b2」「b3」という記号の集積体でしかないと認知されている。

 以上、よろしければ聞いてみたいところです。