「ゲームの外側」の遊びへの注目
http://amanoudume.s41.xrea.com/2006/09/cedec.html
こちらからリンクをいただいていたので、少し。

さて、東浩紀氏は、作品とファンの関係について、長い間語ってきた。
美少女ゲームにおいては作品内のゲーム性は失われたと発言した。また作品自体の価値が失われ、データベース化されてゆくのがポストモダンの現代である、と、主張した。
それが正しいとすれば、作品発信者は、積極的にファンコミュニティを育てるべきであるが、一方で、Type Moonがファンを大切にしてることに私怨めいたことを書いたりする。いったい、どっちなんだ、おまえは、と、言いたくなるが、まぁ。

東氏の言ってることを汲むと以下のようになるだろう。

  1. ポストモダンの現代、普通のストーリーは不可能となった。
  2. 多くの作品は、データベース化された中で、ユーザーとコミュニティを作って消費しあうだけのものでしかない。
  3. 1,2を理解した上で、なお、そのデータベース構造を越えようとする、メタフィクションの気概のある作品が出現してほしいし、評価されてほしい。

……しかしまぁ、これは前提が間違ってるわけで。

  1. 今も昔も、人は普通のストーリーに感動する。
  2. 今も昔も、その感動を確認しあうコミュニティは重要である。
  3. データベース構造を超越しようとするメタな作品は、それはそれで素晴らしいが、それ以外が無価値というのはどうよ?

ということだろう。

ともあれ。最近の彼は「ゲームの外の面白さ」に比重が寄りかかりすぎることへの警告を発している。これはこれで正しい。

「ゲームの外」で面白くすることを本格的に目指した場合、それなりのコストが必要である。逆に言うと、小規模の作り手にとっては、競争要素が一個増すので、負担となる。

同人ゲームにおいて、その作品内容の良さでコミュニティが生まれ、口コミで増幅される、というのは微笑ましい自体だが、現在では、同人といっても、既にプロモの段階から競争が始まっている、と言っていいだろう。同人ソフトの良作が、良作であるだけで売れた、という時代が過ぎ去った、という言い方もできる。「ゲームの外の面白さ」というのは、要するに宣伝費であり広告費込みの概念である、というのを忘れてはいけない。

何が言いたいかというと、「ゲームの内の面白さ」も、やっぱり必要だよ、という当たり前の話である。

作り手と受け手の距離が小さくなった現代において「ゲームの外の面白さ」と「ゲームの内の面白さ」は積極的にリンク可能になったし、それは一つの重要な手法である。また「ゲームの内の面白さ」を持つが、自前で宣伝できないような作品が、口コミなどで広がってゆく可能性もある。ネットにおける宣伝は、たとえばテレビCMなどに比べて、大金をかけなくても工夫次第で、色々できる、というのもある。

以上のようなネットの長所を生かした「ゲームの外の面白さ」の追求は重要であろう。一方で、「ゲームの内の面白さ」が伴っていないとすれば、それは問題だ。

例えば、ゲームの内容とは無関係に、祭りを演出して「ゲームの外の面白さ」を一時的に作ることはできるが、それをやると、長期的には、業界としての信用がなくなるだろう。また、そういう風潮は、デベロッパー主体の業界を作り、作り手に負の影響を与えることもあるだろう。

ただし。良い作品というのは、別に先鋭的な作品とイコールではない。ゲームシステムは、常に進化する必要もない。

ボクはプロセッサ性能至上主義をよく槍玉にあげますが、もっと噛み砕いて言えば、「ゲームの内側を強化すればするほど、ユーザーは喜ぶし、増えるし、もっとお金を払ってくれる。だからゲームの内側を表現する能力にコストをかけよう。それが進化というものだ」という考え方です。

発熱地帯さんの文章からの引用だが、「ゲームの内側が面白いこと」と「プロセッサ至上主義」とは、イコールではない。

たとえばテトリスは今でも面白い(と思う)。テトリス仲間とテトリスを語り合うことは、もちろんテトリスの面白さの一つであり、それによって切磋琢磨してゆく部分はテトリスを語るにおいては欠かせないが。
今からでも、回りにテトリスをやってる人がいなくても、テトリスにはまる人はいるだろう。それは「ゲームの内側の面白さ」だ。

テトリスみたいなゲームをどうしたら作れるだろう、と、考えるのは、「ゲームの内側の面白さ」の追求だ。なんでもかんでもフルポリゴン物理計算エンジンにすればいいんじゃないってとこは賛成だけど、だからって「ゲームの内側の面白さ」の追求を無視していいということではない。

プロセッサ至上主義がまずいのは、開発費に金を取られすぎて、資金を回収できない上に中身がつまらん場合とかそういうところにあるのであって。ハードの進歩によって得られた計算能力を駆使して作られる面白いゲームの可能性自体は否定するものではないだろう*1

「ゲームの内側の面白さ」をきちんと追求することで、それに応じた「ゲームの外側の面白さ」が発生してゆく、というのが望ましい形だろう。

東氏の場合でいえば、「美少女ゲームの内側の面白さ」は、「システムの進化」や「メタストーリー構造」「新たなテーマの追求」だけではない、ということだ。

ディベロッパー主体の、「ゲームの内側の面白さ」が無視される世界が来るのを防ぐために批評家がすべきことは、良いゲームを取り上げることだろう。

であるにも関わらず、東氏は、「美少女ゲームに中身なんかない」的な発言をするので、困るわけだ。

*1:Half-Lifeとか面白いし