howさんとのコメント欄で、思うことがあったので、少しだけ。

オタクとは何かという話だが。この日記では主に、「実際にオタクと呼ばれてる人、自分で呼んでる人」の意味で「オタク」を使っている。

「おたくはどう考えるか?」という話があった場合、非常に単純化して言うなら、「秋葉原で、とらのあなから出てきた人100人にアンケートを取ったら、どんな答えが出るか?」という話に置きかえて考えている。

その一方で、「オタクとはかくあるべきだ」というような理念、運動としての「オタク像」というのもあるだろう。

筆者の場合も、そういうオタク像はある。かつての日記から引用しよう。
http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20040918#p1

 オタクの中で偉くなる、というのは、オタクとして楽しい体験を、より多くの人に与えることだ。

 一番、わかりやすいのは、例えば、良い作品を生み出すことだ。漫画家になること。ゲームを作ること。アニメを作ること。もっと手軽に、同人誌を作ること。短編小説やイラストを公開すること。面白いオタ話をすること。

 次には、良い作品を楽しむ環境を作ることだ。アンテナとなってニュースを伝えること。埋もれた作品を発見して、その良さを伝えること。より楽しめる知識体系を広げること。良い作品の感想を皆と共有したり議論したり、と、いったこと。

 そういうことをした人が、オタクの中では偉い。ほとんどの場合は、それだけのことだ。

 オタクというのは、マンガとかアニメとかゲームとかを素直に楽しむのが生き甲斐であり、理想のオタク像というのは、そうできる環境を作っていく人である、ということだ。

 さて、howさんは「オタク・イズ・デッド」という話を出してきた。
 上記の「作品を楽しむのを生き甲斐」とした場合、果たして、オタクは昔と今でどう変わったか?

 以下は個人的な信念になるが。
 世にオタク作品は様々あり、楽しみ方も色々ある。カレーにはカレーの、ラーメンにはラーメンの味わい方がある。色々な楽しみ方をしっているほうがより幸せだと思う。カレーもラーメンもおいしいと思うほうが、食生活に広がりがあるだろう。

 昔は、供給される作品数が少なかった故に、楽しみ方に貪欲にならざるをえなかった。
 現在は、様々な楽しみ方に合った作品が無数に作られるが故に、「新しい楽しみ方」を知るチャンスが減った。ラーメンならラーメンだけですごい数があるわけで、わざわざカレーを食べなくてもいいわけだ。

 結果、例えば作品ごとに楽しみ方を考えるという習慣が失われ、「このラーメン、カレーじゃないからまずい」的な感想が増え、古いオタクとしては「もったいないなぁ」と言いたくなる場面も増えてきた。

 じゃぁ昔は良かったか、というと、必ずしもそうではない。
 かつてのオタクの結束力の強さは、迫害と被害者意識の裏返しである。想像してみればわかるだろうが 「被害者意識を持った少数グループ」というのは、あんまり幸せなものではない。グループの求心力は、無意味な差別や内ゲバによって支えられていた。
 オタクの場合、差別の基本は、知識量だった。そうしたオタク的教養というのは楽しむ分には大切だが、強制されれば苦痛以外のなんでもない。
 「○○を知らない貴様が××について語る価値などない」みたいな押しつけが、素直にラーメンやカレーを食べる邪魔となった場合も多かった。

 結局のところ、時代の流れは変えられない。数が増えれば丸くなるのは世の道理だ。
 大切なのは、作品ごとに「どうやって取り組むと面白いか」を、押しつけにならないように語れる人材だろう。

 何かを差異だけで語るのではなく(妹が十二人だ)、上下だけで語るのではなく(××は○○の劣化コピー)、「こうすると面白い」というノウハウを、きちんと継承することだ。

 ネット時代の現在だからこそ、そういうノウハウを発信してゆくことはできるだろう。
 今、現在でも、自分の言葉で、「この作品は面白かった」という話題を紡いでいる人がたくさんいる。安直に「論」だとか「シーン」だとかで十把一絡げに語るのではなく、そういう地道な情報こそが大切だと思う次第。

 でまぁ、東浩紀を批評する日記作者としては、東氏が「ポストモダンにおける現代人の生き方が投影されたメタフィクション」という「差異」だけでしか作品を語れてないので、批評家としては精進してほしいなぁと、いつもの愚痴でしめるとする。