東浩紀のアニメ観が迷惑なわけ

最終更新から二年も経ち、様々に読者も入れ代わってると思うので、昔のエントリから落ち穂拾い。

http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20030921#1063904298

作画はマズくて動きも平板でいい

さて、東浩紀氏は、アニメ批評が低調な理由として、読者の質が悪く、ちょっとしたミスを鬼の首でも取ったように非難し、それを見識と勘違いしているような人が多すぎるからだと言った。


では、具体的な、東浩紀のアニメ観を見てみよう。

(望月注:最近の「萌え革命以降のアニメファン」にとっては)
したがって、作画がマズかろうが、動きが平板だろうが、そんなものはアニメを見るうえでまったく障害にならない。彼らは、アニメを見ているようで、実はアニメそのものは見ていない。漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、彼らにとっては、脳内に萌の対象を作り出すために必要な情報を引き出す一種のデータベースでしかなくなっているようだ。
ゲームラボ2003年10月号『crypto-survival notes repure

さて、これに突っ込むのが質の悪い読者とやらなら、俺は質の良い読者にはなりたくない。


このコラムは雑誌ファウスト創刊の時の記事なので、「これからはラノベの時代だよ!」という主旨ではあるのだが……。

東浩紀の見識

「作画が悪くても、動いて無くても気にならない」なんてオタクは、いやしない。


確かに世にはアニメ魔神みたいな人がいて、これまで見たあらゆるアニメの構図を覚えていて様々なオマージュを指摘し、一瞥するだけで作監を当てたりする。そのような鬼みたいなオタク、職人的ファンが、昔と比べて減った、あるいは目立たなくなったというのは、あるいは、あるかもしれない。


「だから最近のアニメオタクはダメだ! もっとちゃんとアニメを見ろ」というのを誇張して語るのならまだわかるが、実は、そういう話ですらない。


オタクにとってアニメそれ自体はどうでもよくて、そこに表現された記号しか意味がない、というのなら、「ハルヒ」は、原作小説だけあればいいって話になる。だから、「いまのオタクはアニメの絵そのものを見ていない。脳内補完で記号自体を消費するので、アニメが没落してラノベやノベルゲームの時代が来る」というのが東の主張だ。翌年には、そうなった、と、勝利宣言をしている。

 僕は昨年9月号のこのコラムで、「ファウスト」創刊を取り上げた。僕はそのとき、これからは、アニメがオタク的想像力の中心を占める時代は終わり、ライトノベルとゲームの交差点にある新しいタイプの小説がその位置を占めることになるのではないか、と記している。その予想はほぼ当たっている。
ゲームラボ2004年8月号『メタリアル・クリティーク』

これらが、2003年9月、2004年8月時点での東浩紀氏のアニメに対する見識である。アニメがオタク的想像力の中心を占めた時代は終わっているそうだ。

発言の責任

批評というだけでヒステリーを起こし、くだらない揚げ足取りをするひとばかりが目立つのでは、だれもアニメについて批評なんかしなくなるに決まっている。そもそも悪口は褒め言葉より目立つものです。アニメについてなにか新しく書こうと思ったとき、そのひとが信じられる読者がどれくらいいるのか。アニメ批評の未来はそこにかかっているのではないでしょうか。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000460.html

批評家が信じられる読者を求めるのなら、批評家も、読者が信用できる批評家であろうとすべきだろう。


人間は日々変化するものである。思想も立ち位置も過去と変わっていて構わない。
思想や主義、学問について、昔と考えてることが変わったのなら「昔はこう思っていたが、今は、こういう理由で考えを改めた」と言ってゆくことは信用を得るために必要だろう。


東浩紀は、現在、アニメに対して、どのような思想、立ち位置を持っているのだろうか?*1

*1:このへんの発言に、東自身が言及しているものが既にあれば申し訳ない。ご指摘いただければ幸いである。