東浩紀の批評が嫌われるわけ

何事もなかったかのように更新。
http://yaplog.jp/sennheiser/archive/17
http://yaplog.jp/sennheiser/archive/18
こちら経由で(面白かったです。このエントリの内容も触発されたところが大きいです)、
http://www.hirokiazuma.com/archives/000460.html
こちらを読む。

古い読者なら知ってると思いますが、実際にはぼくはそのあと、さまざまなところから「東はアニメがわかってない」と叩かれ、某ライター氏からは、面と向かって「あなたの存在自体迷惑だから、今後オタク関係について語るな」と罵倒されたりすることになります。というわけで、やべえ、この業界まじで怖いわ、と思って、アニメ業界からは微妙に距離をとることにしてきた(そしてその結果、美少女ゲームとかライトノベルについて多く語るようになった)のですが

美少女ゲームライトノベルにとっても大変迷惑だったと思う。存在自体が迷惑かはともかく、ぞんざいな物言いは大変に迷惑だった。
どうやら、怖がらせ方が足りなかったらしい。
反省。

批評ってなんだろう

さて、批評には、大ざっぱに二通りある。
a.作品に対して新たな知見を与える批評。
 「おお、なるほど、この作品は、そういう見方もあったのか!」と手を打つような話である。
b.作品を通じて何かを語る批評。
 「なるほど。社会の趨勢と変化が、このストーリーにも反映されているのだな」というわけだ。


これらは両輪であって、バランスを取る必要がある。
作品に対して知見が得られないものは、そりゃ少なくとも作品の評論ではない。逆に「作品を通じて語る何か」が全く無かったら、それは評論とは言えない。

求められているもの

「批評/評論」は必要か、求められているか、という話はあるが、それなりには求められているだろう。
自分の好きなアニメについて、目を開かれるような論考があれば、それは読みたいと思う人はそれなりにいるはずだ。
「作品に関する新たな知見、見方」というだけなら、それは、例えば、制作のトリヴィアや、声優話、キャラ萌え、要するに様々なオタ話が含まれる。
そういう話はみんな好きだし、そうした断片的な情報に筋を通すような評論は、好む人はいるだろう。
要は、アニメファンはアニメが好きなので、aに軸足を置いた批評が好まれるという話だ。


一方で、ファンに嫌われやすいタイプの批評は、bに軸足を置いたタイプだ。
「作品を通じて語りたいこと」に、当初、読者のシンパシーが無いからだ。


aに軸足を置いたもの、bに軸足を置いたもの、この段階で優劣はない。
bの部分が全く無い批評は、単なるオタ語りになってしまう。
aの部分が全く無い批評は、これまた作品を無視した俺思想語りになる。
本来、aとbは矛盾しない。論の構成としてはa、b、両方を綿密に組み立てながら、読者層に応じて語り口を変えればいい。例えばアニメファンが、批評家が重要と思う思想に興味がないのであれば、じっくりと紹介してゆけばいい。

欠陥建築

東浩紀の批評がbに軸足を置いたタイプであることは間違いない。それだけであるなら、難しいから頑張ってくれと応援するところだ。
問題は、東氏が、あからさまにaの部分を軽視していることだ。


事実関係を間違える。それに対する批判を無視する。
結局、それは作品はbの思想を語るためのダシであり、いくらでも置換可能だという話になる。


エヴァンゲリオンを通して、ポストモダンを語ろうとする。それはいい。
それなら、エヴァンゲリオンを分析し、エヴァの独特さを、あるいはアニメの中でのエヴァの位置づけを唯一無二の物として、その上で、それがポストモダンにつながることを言えばいい。


そこにおいて、エヴァの分析、事実関係がいい加減だったら、要するに、それは、エヴァでなくてもいいということだ。「○○だから××はポストモダンだ」という例文があって、○○と××のところに、好きなものを適当に当てはめてるだけに過ぎない。


そういう評論は、エヴァファンからは嫌われるだろう。嫌われて当然だ。

具体的に言えば、一生懸命なにか考えて書いても、ちょっとした名前のミスとかなんとかで鬼の首でも取ったように非難する、そしてそれを「見識」だとカンチガイしている読者が多すぎるからです

トリヴィアルな間違いを鬼の首のように語る受け手はどこにでもいる。それらは確かによろしくない。
とはいえ、小説だってアニメだって漫画だって、重要なところに誤字があったら感動が台無しだ。だから、みんな必死で校正する。
逆に言うと、誤字の多いものは「その程度のいい加減さで書かれたものだ」と言われても仕方がない。評論でも、それは同じだろう。
さらに言うと、「こんな簡単なとこ間違えてるけど、おまえ、本当に作品見てるの?」という疑念が湧くような評論だとすると、それはそれで、問題がある。


その一端は、この日記でも沢山書いてある。


そういう下部構造はどうでもよくて、思想部分の上部構造が重要だ、というのであれば、それは、つまり欠陥建築ということだ。
基礎ができてない欠陥建築は、そりゃ否定されて当然だ。

好きという気持

さて、アニメの評論をしようとする。


あなたが、アニメ超人で、古今東西のアニメを全て見ていて、製作現場のこともよく知っていて、様々な監督や脚本家やアニメーターとも知り合いであるなら、ツッコミどころのないアニメ評論を書けるかもしれない。


ところが現実はそうではない。誰もが最初から氷川竜介にはなれない。
だから、アニメについて書く時に、どうしてもわからないところを想像で埋めながら書くことになる。その中には正しいこともあるし、間違いもあるだろう。
そこにおいて、細かい揚げ足取りやら罵倒やらされていたら、批評が育ちようがない。それが東浩紀の主張であり、いらだちであると思う。


さて、自分が無知なことについて、それでも語りたい時は、どうすればいいか? 謙虚になればいいのだ。


「僕は、これを見て、こんな風に思った。ということは、こういうことじゃないかと思う。もしこれが正しいとしたら、こういうことになっているはずだけれど、そのへんはどうだろう、知っている人がいたら教えてほしい」


こういう風に書けば、反発は少ない。突っ込むにしても「そこは、実はこうなっていてね」と優しく教えてくれることが多いだろう。


その対象を知りたいという素直な気持ちを前に出すこと。
「これが好きなんだ」「ここが面白いんだ」というのが伝わってくること。
自分が無知であることを弁えて謙虚になること。
簡単なことだ。
本当に詳しい第一人者が、さらに、そうやって謙虚に素直に語ると、これはもう無敵と言っていい。

都合のいい読者を求める批評家

嫌われるタイプの評論家というのは、その逆だ。とにかくすごい結論を大上段に振りかざしつつ、足下が甘い。「動物化するポストモダン」とかな*1


評論の世界とかでは、そーゆーのがスタイルとして認知されていて、いかに、でかいホラをぶちあげるかが重要で、読者もホラを楽しみつつ話半分に聞き流してやるのが、礼儀とされているのかもしれない。
もしそうなら、それはそれで美しい文化だと思うが、そんな世界のリクツを持ち込んで、それに反発する受け手を罵倒するのなら、それは文字通り、お門違いというものだ。


謙虚であること以外にも、知識が完璧でなくても文句を言われにくいスタイルってのは、幾らでもあるだろうに、敢えて、揚げ足を取られやすい評論をするのは、そら批評家の責任でもあるだろう。
批評家のスタイルとして攻撃的であるのは構わないが、攻撃的なスタイルなら、そら反撃も喰らうだろうし、そこに文句を言っても始まらない。

東さんはどこへゆく

そもそもアニメ批評は、読者の(読者の、です。書き手の、ではありません)質があまりに悪すぎて、いま批評を志す人間にとってコストが高いわりにリターンが少ないからです。

アニメ批評(や、その他のサブカル批評において)読者の質が悪い面は確かにあるだろう。
だが、同時に、批評家が、自分にとって都合のいい読者を求めるのは、馴れ合いの最たるものだ。


リスク・リターンの高い場所というのは、言葉を換えれば「ぬるま湯」ということだ。
「批評家は保護されている!」とか言われる前に、考えたほうがいい。

*1:敗戦のアメリカコンプレックスが、リミテッドアニメを作った、とか、いきなりどでかいことを、さらっと書かれたら、つっこまれもするだろう。