程度問題あるいは糞味噌一緒

こちらの記事を読んで、はてブコメントをつけたところ、反論のエントリをいただいた。
・元記事
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081116/1226794244

2008年11月18日 motidukisigeru これはひどい 科学か疑似科学は専門家でないと区別つかないというのを前提にしてるようだが、ちょっとした常識+α程度で簡単に判断できることも多いんだから、それを広めようよ。

・反論のエントリ
http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081121/1227240502
さて「ちょっとした常識+α」に関して、エントリ「不完全な情報で判断を下すということ」というエントリをあげた。このエントリ自体は、元記事に対する直接の反論ではないので、おっしゃる通りの不十分さがある。
そこで、元記事自体に関する反論をしたためてみた。

なんちゃって理解は肯定できない

似非科学対策としての「なんちゃって理解」を実現できないか - 狐の王国』の問題提起は非常に示唆に富むものだった。盲点の無い観察は無い。したがって、何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知を前にしては、「なんちゃって」理解することと「嘘を吐いて」理解させることが効果的に重要な選択となる。

まずはここからだ。
「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」に対して「なんちゃって」「嘘を吐いて」「自覚のないメタファー」を使うことが、「効果的に重要な選択」とされている。


「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」に対して、かつ、それに対処しなければならない場合、どうするか、というのは、悩ましい問題である。
ではあるが……。
似非科学」は、果たして「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」なのだろうか?
水からの伝言」が科学的におかしいことを判断するのに、「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」は必要だろうか?
「なんちゃって」「嘘」「メタファー」は必要だろうか?


俺は必要じゃないと思う。そのことは、前回の記事で書いたとおりだ。
もちろん、理解とは何か? という話はあって、「専門家による完璧な理解」とかを前提とした場合、素人の理解に、過剰な単純化、メタファーを通じた理解がまじら無いとは言えない。ただ、それは程度問題だ。「メタファーのまったくない完璧な理解」みたいなのを前提にすれば、あらゆる理解は不完全だが、別に完全である必要はなかろう。不完全にも程度と質がある、というのが前提でね。


似非科学の中で、本当に精巧に科学に偽装して、複数の分野の専門家が本気で考えないと反証が難しいようなものがあったら、氏の言ってることは有効かもしれない。
で、「何が複雑なのかもわからないほどに複雑な情報や知」を必要とする似非科学の実例は、何だろうか?

無知な弱者はどのくらい無知か?

無知な弱者」が、一方では科学を信仰するあまりに疑似科学に騙され、他方では疑似科学を批判するあまりに科学に騙されるという循環を辿っていると考えている。「無知な弱者」でも確かに一定程度は疑似科学を見抜き否定することが可能だろう。しかし、「無知な弱者」が疑似科学批判に依拠するのは、科学である。しかしながら、その当の科学が<マッド・サイエンス>か否かを見抜くことは、「無知な弱者」には不可能だ。

これも程度問題だ。科学に詳しくない人でも「マッドサイエンス」か否かを見抜くことは、詳しくないなりに可能だ。また、自衛のための知識を身につけ、経験を積むことで、少しずつ詳しくなれるだろう。


無論、「無知な弱者」を、例えば、平均的な幼稚園生とするなら、そりゃ難しい話を分かってもらうのは、大変かもしれないが、ここでも要するに程度問題である。


疑似科学が十分に複雑なら、受け手が十分に無知なら、確かに、理解することは不可能だろう。ただそれは「理解できない人には理解できない」というトートロジーに過ぎない。
そういう疑似科学、そういう受け手ばかりではない。また、受け手に応じた説明があるだろう。

解決には解決に伴う問題があるから何もしない?

 リスクと危険の区別から考察を出発させる我々は、いわゆる「リスク・コミュニケーション」といったマネジメントには没入しない。(中略)
 次のように言い換えることもできる。問題解決は、派生的な問題を常に生み出す、と。問題発見とは、発見可能な問題を発見しているに過ぎない。問題解決とは、問題解決されるべき問題解決なのだ。

リスクを減らそうとする行動にも、リスクはある。
問題解決が派生的な問題を生み出すことはある。
その通りだ。
では、問題解決しないべきか?
氏の家が燃えていたとする。
消火するという行為は問題解決であるが故に、派生的な問題を生み出す。
であるなら、火を消さないで隣家巻き込んで焼け死ぬか。
そういうことではないだろう。


片方に「明らかにやるべきこと(燃えてる家の火を消す)」があり、片方に「やったほうがマシかどうかわからないこと」があって、それらの程度をどう見分けるか、どういう時にどうするか、という考えが大事なのだ。
であって、一律に否定するのは意味がない。

無限後退は別にしていない

 こうした巨匠の失敗例からもわかるように、疑似科学批判という脱魔術的な振舞いは、逆説的にも、終わりの無い脱魔術化の追求という魔術的な呪縛を構成することになる。『(改題)トンデモ水ビジネスの片棒を担いでしまったはてな匿名ダイアリー - E.L.H. Electric Lover Hinagiku』のような脱魔術的な振舞いも、常日頃継続されている訳ではないだろう。何処かで停止しなければならない。さもなければ無限後退だ。しかし皮肉なことに、その停止点において、宗教が機能する。「人間が自分の宗教の教義のおかげでどんなに大きな負担軽減を体験するか、容易に判るであろう。教義は、解答できない問いの、無限に続く堂々めぐりを防止してくれるのだ」[7]。疑似科学批判者たちにとっては屈辱的かもしれないが、機能等価主義、免疫論理学、負担免除論、埋め合わせ論は、冷徹にこう述べるだろう。宗教は、学術の負担を免除する機能的等価物だと。

何が疑似科学で、何がそうでないか。何が科学的に正しくて、何がそうでないかを、無限に追求していこうとすると、様々な哲学的問題や矛盾が生じる。もしかしたら、そこに宗教が必要とされるかもしれない。


でもさ、誰も、そんなことやってないよね?
「創生水って変じゃない?」「水からの伝言って変じゃない?」というのは、科学の科学性を無限に追求してるわけじゃない。
無限後退してるのは氏であって、それ以外ではない。

むしろここでは、疑似科学批判の危険を指摘することによって、疑似科学批判者たちに止めを刺すことにしよう。

 注意しなければならないのは、より厳密かつ正確に疑似科学批判に取り組もうとすれば、ますます「無知な弱者」には到底理解できない科学的領域に踏み込むことになるということだ。

「より厳密かつ正確に疑似科学批判」というのを追求すれば、確かに、専門家以外にわからない領域にゆくだろう。それはそうだ。でも、別に、専門家以外にわからない議論をしなくても、疑似科学批判をすることはできて、それは十分に有効だ。
それがなぜ「疑似科学批判者に止めを刺す」ことになるのかな?

「これこそが科学だ!」こう述べることによって、非科学の領域に位置付けされた疑似科学を追放することができる訳だ。たとえば『(改題)トンデモ水ビジネスの片棒を担いでしまったはてな匿名ダイアリー - E.L.H. Electric Lover Hinagiku』について言えば、どうやら客観的なデータが不足しているということが、批判の矛先になっているようだ。つまり、「客観的なデータが充実している記事こそが科学だ!」ということなのであろう――それ以外は何も言っていないのだけれども。

「これこそが科学だ!」という主張をしてるわけではない。例えば、客観的なデータが充実してさえいれば科学だ、ということはない。
でも、客観的なデータ抜きで、効能を言うのは、科学ではない、というか、常識的におかしい。
てかさ、「この水は、すごく効くよ。効いたって人のデータは全くないんだけどね」って言われたら、うさんくさいと思うよね。
科学的な常識と、一般人の常識が合致するレベルで、十分に否定できるのだ。
完全に否定できるかは完全さの定義によるが、少なくとも「怪しい」くらいのことは判断できるだろう。そして、そういう物の考え方、ノウハウを伝えるのは重要だ。

科学と科学技術

さてさて、ここから氏は、科学の権威を強調することで、「無知な弱者」が「科学に騙される」危険を問題視する。
科学に騙される、とは、なんだろう?

しかし、科学的なビジネスもまた、考え様によっては害悪である。たとえば『知のデザインとしてのメタファー - ポスト・ヒューマンの魔術師』や『生政治と「心脳マーケティング」の接続可能性(1) - ポスト・ヒューマンの魔術師』で取り上げている「心脳マーケティング」は、消費者の心や脳を機能的に方向付けることによって、商売して行こうという話だ。このように述べただけではピンと来ないかもしれないだろうから、もう少しわかり易い事例を挙げてみよう。たとえば『生政治の生権力を無自覚に受け入れる「人間」たち - ポスト・ヒューマンの魔術師』で取り上げたような、「動物化」、「自己家畜化」、「マクドナルド化」、あるいは「生権力」など、これらは「心脳マーケティング」同様に、人間の心や脳を機能的に方向付けることによって、利益や権力を好都合に操作していこうとするスタンスである。言い換えれば、我々の欲望や欲求を<科学的に>方向付けるシステムなのだ。

なるほど。疑似科学ではない科学技術の成果にも問題があるものがある、という話か。どうやらこの人は「科学」と「科学技術」を区別できていないようだ。


疑似科学」が、科学的におかしいから排除されるべきである、というのなら、科学的に正しい技術を用いたものは、全部受け入れるべきであるか?
無論、そんなことはない。
「科学的に正しい」と「科学的に正しい技術は全部受け入れるべき」は、全く違う話だ。


「科学的に正しい」という批判をすることに、そういう副作用が伴う、というのは理解できるが、だからといって、そういう間違いをする人がいるから、「科学的に正しい」を言ってはいかん、ということになると、これもまた程度問題だ。

別にパラドクスじゃない

我々は、疑似科学を警戒すれば、科学に騙される。科学を警戒すれば、疑似科学に騙される。「だからパラドクスなのだ。いかなる努力をもってしても、開始し始めたその所で――つまり解き放たれたと思った問題において――再び終りが理解される」[13]。

疑似科学を警戒しようとすると、科学に騙されやすくなる。
科学を警戒すれば、疑似科学に騙されやすくなる。
ここまでは正しい。


が、それは「科学的に正しいかそうでないか」「倫理的かそうでないか」を、別々のものと理解し、両方の知識を得ることで、両方に対応できる。
別にパラドックスでもなんでもない。


さて「倫理的とはどういうことか」というのを、つきつめると、長い長い議論になる。何度も書くが、これも程度問題だ。「人殺しは、おおむね、よくない」とか「嘘は、おおむね、よくない」という素朴なレベルで、理解、合意に至れる程度のことも多い。例えば、「創生水」が詐欺だったとして、「これはいかんよね」というのは、普通に合意できる話だろう。

疑似科学批判とは何か

疑似科学批判の副作用として、科学的に正しければ何でも受け入れるという風潮を作る可能性がある」というのは、卓見であり、疑似科学批判者は気をつけるべきだろう。


ただ、疑似科学批判をしている人のほとんどは、単に「科学的に正しい/おかしい」を問題にしているのではなくて、「これがおかしいって気づこうよ」つまり「みんなが自分で考えられる」ことを目指している。


「科学的な態度」には「科学は価値判断をしない」というものも含まれる。
だから、「科学的な技術だから受け入れるべき」というのも、科学の権威にタダ乗りしようとする、広義のニセ科学であり、批判の対象だ。


もちろん、人それぞれなので疑似科学を批判してる人の中に科学権威主義的な人がいないとは言わないが、少なくとも「疑似科学批判=科学権威主義」というのは成り立たない。

程度問題

この記事で、なんども程度問題と書いた。要するに、こういうことだ。


さて、ある物Aがあるとする。
極限的な状況を想定することで、Aが無意味だったり害悪だったりする場合を考えられるだろう。それによってAを批判したり、「相対化」したりする論法がある。


この論法を濫用すると、なんでも簡単に否定できる。
例えば、「この薬はこの病気に効く」という人に「沢山飲み過ぎると中毒する! だから毒でもある」と言って「そもそも薬と毒は同じものだ」とか言うわけだ。
こういうのを程度問題という。薬に毒の側面があることは確かだが、それは別に、その薬を適切に使うと病気が治りやすくなる場合が多い、というのを否定するものではない。


極限状況を考えることは大切であるが、極限の話を簡単に一般論に結びつけてはいけない。それこそ「糞味噌一緒」というものだ。