解釈ゲームと織田信長宇宙人説

全ては解釈ゲーム……か?

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1

南京大虐殺について僕はあると思っている
しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能
いくらでも理論武装することは可能
この世界で公共性を考えるなら、まずあるいう奴とないという奴がいるんだ、ということからはじめないといけない


デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる
言うということはデリダを裏切る
左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと


これは非常に難しい問題
従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか
南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか
全ては解釈ゲーム
東浩紀ポストモダンと情報社会」2008年度第6回

(nitar氏が書かれた講義記録より抜粋)
・いくらでも理論武装することは可能
・全ては解釈ゲーム
・歴史的真実なんてない


こういうワードで、「南京大虐殺」の肯定と否定が相対化されている。
一見、正しそうに見える。だが、そうだろうか?


ここでの東氏の発言は、「南京大虐殺」に関する具体的な調査を一切前提としていない。故に、歴史上のあらゆる説に対して適用できる。


例えば、俺が「織田信長は、人類史を背後から操作する宇宙人であり、ローゼンクロイツ頭領の生まれ変わりで、ヒットラーもナポレオンもアレキサンダーも全部織田信長であり、全ては第七十五次元の精神生命体ミュルミュルボヒュンガーの手駒である」と言ったとしよう。
この説にも、上記は適用できるのだ。


この説が間違いであると完全に証明することはできない。
好きなだけ理論武装することだってできる。
語の意味を拡大解釈して様々な意味に取ることもできる。
織田信長宇宙人説を信じる人を完全に消し去ることもできないだろう。


で、「織田信長宇宙人説」は、真面目に取り合う価値はあるだろうか?
……普通は無いだろう。


歴史的真実が存在しない、というのは「織田信長宇宙人説」をも認めるということだ。
もちろん、「織田信長宇宙人説を含め、どんなトンデモも珍説も含め、あらゆる歴史が解釈として存在しうる」という立場もある。
ただ、東が言いたいのが、そこまで全てを相対化する視点なのであれば、南京大虐殺を持ち出すべきではなかった。

程度問題あるいはダブルスタンダード

ポストモダンの立場から、あらゆる歴史観を相対的に見るのなら「南京大虐殺が無かった」も「織田信長は宇宙人」も同程度に正しいという話になる。
それならそれでいいが、そうわかるように書くべきだ。


そうではなくて、「織田信長宇宙人説はいくらなんでもひどいよ」という話なら、各仮説には、様々な意味での正しさについてランクの違いがあるということだ。ランクの違いを認めるなら、当然、「南京大虐殺の肯定」「南京大虐殺の否定」の正しさも、きちんとランクをつけて語るべきだ。


講義ノートを信じるなら、東は、「南京大虐殺は無かった」ということを「いくらでも理論武装することは可能」と書いている。
理論武装する「だけ」なら、「織田信長宇宙人説」だって理論武装できるわけだから、この文章は、厳密に論理的な意味では間違いではない。
とはいえ、「織田信長宇宙人説」の理論武装は、まぁ、何をどうやっても、飛躍だらけのうさんくさいシロモノになるだろう。


「いくらでも理論武装することは可能」を普通の日本語として捉えるのなら、これは「いくらでも説得力のある理論武装ができる」という意味になる。
さて、南京大虐殺否定派の理論は、説得力のある理論武装をしているだろうか? 私はしていないと考える。


さて、東氏が「肯定否定、どっちに転んでもおかしくないくらいに、よほどの専門家でないとわからない理論武装が存在している」と言いたいのなら、それは明白に間違いだし、無神経すぎる議論だ。
そうでなくて「どっちかは一目瞭然だけど、それでも揉める」というなら、そう分かるように書くべきだ。


無論、専門家からすれば明々白々でも、ぱっと見では、正しいかどうか素人にわからない、とか、議論が長すぎていちいち追う気がしない、という問題はあるだろう。


で、そこの見通しを良くするのも、専門家の仕事である。


http://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20081119#p1
「不完全な情報で判断を下すということ」で書いた通り、物理学を極めなくても「水からの伝言」がおかしいと理解することはできる。
南京大虐殺が無かったは、ウソ」も、歴史学的センス、見方のコツを理解することで、専門家でなくても、おかしいと理解できる。


「歴史的真実は存在しない」と言い放ってしまうのは、そういう努力をしないことの言い訳に思えてならない。