聞く人の気持ちを考えよう

原爆は落ちてない

例えば、どっかの国で、「原爆なんかホントは落ちてない」「落ちたけど、すげー人が死んだってのは日本人のでっちあげ」という話が出てきた、としよう。


日本人として、あるいは個人として、そういうことを言う人に対しては、控えめにいって、かなり不愉快な気持になる。


また、それに対して「絶対の真実などないから、原爆否定論にも耳を傾けよう」という人がいたら、理屈ではわかるにせよ、不愉快な気持にはなってしまう。それが重要な論点で、どうしても言う必要があるのなら分かるけど、さしたる必要もないなら持ち出してほしくはない。


「俺は、ちゃんと原爆の現場見て来たんだぜ。広島の原爆ドーム見たら実感あったけど、長崎原爆資料館は、あんまり実感なかったね。ひょっとしたら長崎の原爆は落ちて無かったって転向するかも。それが俺の「真実」」と書いていたら。


俺は殺意が湧く。


南京虐殺否定論について、安易に議論の例に持ち出されることを、不愉快に感じる人がいる。
その不愉快さがどれほどかは、わからない。わからないが、例えば、上記の例で、少しでも察することはできるのではないか*1*2

誠意は大切

別に「気持」を聖域にするつもりはない。
学問的な議論を行う時には、あらゆる可能性を考える必要がある。いやなこと、聞きたくないこと、えげつないことも、全部、きちんと考え、議論する必要がある。感傷を排除する必要がある場合もある。
そういう文脈では、一般人としては傷つくけど、学問としては必要な議論というのも沢山あるだろう。


ただ、そういう必然性のある議論には、どうしても思えない。

A.いまの日本社会に、南京大虐殺があったと断言するひとと、なかったと断言するひとがそれぞれかなりのボリュームでいるのは事実である(この場合の南京大虐殺は例)。

B.ポストモダニズム系リベラルの理論家は、「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」と随所で主張している。

C.だとすれば。ポストモダニズム系リベラルは、たとえその信条が私的にどれほど許し難かったとしても、南京大虐殺がなかったと断言するひとの声に耳を傾ける、少なくともその声に場所を与える必要があるはずである(この場合の「耳を傾ける」=「同意する」ではない)。

C'.逆に、もし「南京大虐殺がなかったと考えるなどとんでもない」と鼻から言うのであれば、そのひとはもはやポストモダニズム系リベラルの名に値しない。

C''. むろん、上記の主張は、右と左を入れ替えても言える。

D.ポストモダニズムリベラリズムの立場とは、このようにハードで、ときに自己矛盾を抱えかねないものなのだ。

「例」と言うけれど、安易に例にすること自体、大きな問題なんだよ。自己矛盾を強調したいのならさ、自分が一番痛い話にすればいいじゃん。


どうせ「絶対の真実などない」ことが前提なんだから、それこそ「原爆否定論」だっていいだろう。それでなくても、日本として痛い事実は幾らでもあるだろう。


さらに「実感」とやらを語りだす。
そういう実感を持つのは別に、いいんだが、その実感を安直に表明することは、どれだけ多くの人を傷つけるか、どれだけ失礼なことか、どれだけ不誠実なことか。


その不誠実は、少なくとも、「真実に興味があるなら来てみろ」と言われて、授業に行った人の比ではない、と、思うのだが。

*1:このエントリで、東氏を批判するために原爆の例を出したことで不愉快に感じた人には本当にごめんなさい

*2:原爆投下と、南京虐殺は、様々な点で違うものであり、単純に同一視することは両方の関係者に対して失礼ではあると思います。その点については申し訳ない。ただ、人間は誰かの気持ちを思い描く時、どうしても自分の経験を基点にしてしまう生き物だと思います。同じ気持ち、同じ悲しみなどないことを十分自覚した上で、相手の気持ちを察しようとする限りにおいては、こうした比較許していただけるのではないかと思います。