絶対的真実は問題にしていない

崎山氏の東浩紀擁護

http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/14/on_attacks_against_hiroki_azuma
・「絶対的真実」は存在しない
言論の自由は大切
南京大虐殺否定論でも、存在する意味はある。
・それらを認めないと、弾圧が起きうる。


どれも賛成ですし、否定したこともありません。
問題は、バランスなのです。

東氏は何と言ったか?

東氏が「明らかに間違った歴史修整主義であっても、完全に排除するのはよくない」と言ってるのであれば、誰も反論しないでしょう。
問題は、東氏が、「明らかに間違った歴史修整主義」とは言っていない点にあります。

当たり前ですけど、政治的判断は一般に伝聞情報によって下される。ある事件について、本当に何が起こったかを自分の力で確かめられる人間は常に少数です。それなのに、膨大な情報だけはネットで簡単に手に入る。そのなかで、左翼は自分に都合のよい情報をネットで集め、右翼も同じことをする。

 ぼくたちがいるのはそういう環境です。そういうなかで、「政治」的な論争だと思われているものの多くは、完全に伝聞情報というか、一群の書籍のうえに組み立てられた解釈の争いにすぎない。そこからは、何ら科学的真理は出てこないし、新しい知見も出てこない。そういうことがすごく多い。

(リアルのゆくえ)

けれども、南京についてはそんな思いは残らない。だから、ぼくは転向するかもしれない。それは弱さだけれども、しかし、南京まで出向いたあげく、ぼくの心のなかにそういう差異が生まれたことは否定できない。
(中略)
ネットだけで「歴史の真実性」について叫んでいるひとを見ると、やはり(デリディアンとしてこんなことは言いたくないけど)、文字情報の相対性や弱さに単純に無自覚なように見えてならない。「リアルのゆくえ」でぼくがいったのは、そんなふうに文字情報ばかりで構成された世界観など、文字情報によってすぐひっくりかえるのだから、少しはみな自重したほうがいいのではないか、ということです。

歴史認識問題についていくつか)
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

一方に慰安婦はいたと怒っている人がいて、他方に慰安婦は存在しないと主張している人がいる。ぼくに、というか、たいていの人にわかるのは、そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない。

(『思想地図 Vol.1』)
これらのエントリーを見ると、東氏は、南京虐殺問題について(そして従軍慰安婦についても)「専門家にはともかく、素人には判断が不可能で解釈が分かれる問題」と主張したいようにしか見えない。


どうせ、反対派と賛成派がいて、何をかけても水掛け論なのだから、専門的な事実の追求など無視して、政治的にだけ行動すればいい、というスタンスだ*1


私が批判しているのは、そこであって、それ以外ではない。
既に正しさが確立され、積み重ねられてきた問題について、「素人にはどうせむずかしくてわからない」ことに差し戻すのは、歴史修整主義そのものだ。


普通に事実を集めて理解し、それを広めることで、反対派を全部無くすことはできないし、その必要もないが、一定の理解を得て増やしてゆくことはできるし、そうすべきだ。
事実に当たりもしないで「どうせ調べたってわからないから、あとは政治」という態度を取ることは、好きじゃないし、また、社会全体にとってもよろしくないと思う。


崎山氏は、これについてどう思いますか?


南京虐殺問題、従軍慰安婦問題について「ぼくに、というか、たいていの人にわかるのは、そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない」と思われますか?

追記

崎山さんの記事に、トラックバックを送って、一度、保留になったが、現在は消されているようだ。操作ミスであったら、再度お送りしますので、お知らせください。

http://blog.sakichan.org/ja/2008/12/15/not_issues_on_the_interpretation_of_hist

新しくでた記事だが、こちらについて、東氏の南京虐殺に関する記述が、当人は「単なる例」のつもりであっても、「単なる例」にとどまらない、歴史修整主義に利する記述になってることを問題にしている。