南京事件の閾値、そんなものが不要な理由

南京事件を否定してしまうのは入門知識すら身につけてない証 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

こちらのコメント欄で、たいがい長い議論をしてしまったので、移動。

いまさらながら・・・ - Apes! Not Monkeys! はてな別館

こちらのコメント欄も参照しつつ

さて、id:shivashantiさんは「南京事件の定義」を求めています。

「どの事実が否定されたら南京事件が否定されるのか」に答えることができなければ、どれだけ「あった理由」を並べても南京事件とは何かを語ったことにはならない。
真の南京事件否定論者 - 売り切れました

肯定派、否定派が存在することに対して、南京事件の内容が定義されなければ、肯定/否定はできないわけだから、対等な議論をするには「何が南京事件であるか」の定義が必要である、という話です。


また、その定義の一貫として、「大量の犠牲者」が含まれるのか否かというのを何度も聞いています。


一見、正論にも思えますが、このアプローチは様々に間違っています。

犠牲者の閾値

「大量の犠牲者」を「定義」として明示しない理由は、様々にあります。

1.議論の正確性についての手がかり

 例えば、犠牲者数100億人という人がいたら、その人の主張はそれだけで信用に値しないとは言えるでしょう。3人という人も同様です。
 その意味で、数値は議論の正確性についての手がかりになり、全く関係がないとは言えません。


 「犠牲者数は関係ない」と断言してしまった場合、「じゃぁ100億説も3人説も認めるのか?」という揚げ足取りが発生します。


 ただし、正確性について議論する場合は、結果としての一個の数値ではなく、その数値を採用するために、どの資料によってどのように検証したかが重要になるというのは、同記事コメント欄で書いたとおりです。

2.事実検討への意志

 南京事件でどのようなことが起きたのか、という細部については、現在も研究が続けられています。その結論として、様々な事実が明らかになっており、その一貫として数値推定も変化します。


 「数値は関係ない」というのは、「細かい事実とかどうでもいいよと言うんだな?」「これ以上、調べる必要はないんだな?」という揚げ足取りを生みます。


 「数値は関係ない」と明言することは、事実を拡大もしくは縮小しようとする政治的な行いに賛同することになってしまうわけです。

3.倫理の問題

 数値が関係ある、という言い方は、「では、何人以下なら事件性はないと判断するのか?」という話になります。
 そうなると例えば、「この状況で、5千人までなら、戦争だから仕方がないや」等の意志表示とも受け取れます。それは、倫理的に問題がありますし、また犠牲者やその家族に対して失礼でしょう。


 その意味では、数値の大小で事件性を定めることは倫理的、あるいは礼儀として間違っています。

4.常識論

 とはいえ、犠牲者が3人だったとしたら、確かに南京大虐殺とは呼ばれなかったでしょう。その意味で、数値の大小は関係ない、とは言えません。
 ある程度以上の規模があって大虐殺、事件と呼ばれている、というのは常識論として正しいです。

5.議論をする意味

 さて、南京事件の犠牲者が本当に3人かもしれない、というのなら、「どこからが〜」というのを検討する意味はあるかもしれません。


 ただし、推定数の中で、もっとも控えめな数字であっても大虐殺と呼べる数であることが了承されるなら、わざわざ数値による定義の議論をするのはバカらしいですわな。


 そういう議論をする意味は、俺はないと思いますし、その論点を執拗に持ち出す人は、上記1〜3の揚げ足取りを狙ってる人ではないか、と疑うわけです。


ぶっちゃけて書いてみましたが、南京事件の定義に犠牲者数を含めるかどうかという議論が、どんだけ無神経なものかの片鱗は、伝わるでしょうか?
書いている俺も申し訳ない気持ちです。

東京大空襲だったら

南京大虐殺を、東京大空襲に置き換えてみれば、id:shivashantiさんの言ってることのナンセンスさがよりよく分かると思います。


東京大空襲の定義って何だい?」
「(定義?)えーと、1945年3月10日に東京が受けた空襲、じゃないかな?」
「それだけだと定義にならないよ。例えば、米軍が行った空襲だよね。あと、多くの被害者が出た」
「……いやまぁ、そうだけど」
「ということは、多くの被害者を含むは、大空襲の定義に含まれるんだね?」
「よくわからんが、なんで定義が必要なんだい?」
「定義がなければ、東京大空襲が存在したかどうかの議論ができないじゃないか」
「なに、その議論?」
「否定派との議論だよ」
「否定派っているの? 資料とか沢山残ってるし、まともな学者で東京大空襲を否定する人っていないだろ」
「否定の定義によるよ。例えば犠牲者数の数は10万とされているけど、それについて意見が分かれることもあるだろう」
「いやまぁ推定数だから、どうしても幅が出るだろうけど」
「幅が出るということは、統一見解がないということだね」
「それは違うと思うけど……資料が色々あって分析の仕方の細かいところで意見は分かれるから推定値の幅はどうしても出るけど、でも、東京大空襲が存在しなかったとか言う人はいないよ?」
「うん。ということは犠牲者数が、東京大空襲の定義の一つなんだね?」
「いやいや、それは何か違うから」
「具体的には、何人以下なら、東京大空襲の定義から外れるのか。1000人かい? 一万人かい?」
「推定に幅があるといても、どう少なく見積もっても、数万は犠牲者数がいるわけだよね。そんな閾値を決める意味があるの?」
「議論の枠作りに必要だよ。そうしないと否定派と議論ができないだろう。さぁどうなんだい、犠牲者数は大空襲の定義に関係するのかい? するのであれば閾値は幾つだい?」
「あっちいけ」


まぁ、こんな感じです。

議論の公平さについて

同様のことは、関東大震災でも、なんでもあてはめられるでしょう。
関東大震災が存在したと言える定義、条件」は、どこかにはあるでしょう。被害者が何名以上だったから「大震災」として、通常の地震と違う形で呼ばれるに至った。
でも、そんな数字をいちいち考える必要がない。


「議論は公平であるべきだ。肯定派は否定派に対して定義を示すべきだ」と言うかもしれませんが、「無数の研究と専門の学者によって確立された歴史的事実」vs「よくわからん否定論」を、五分五分に扱うのが、まず不公平なわけです。


仮に、東京大空襲関東大震災について「否定派」が新しい証拠を出し、今の証拠の多くを否定しさり、結果、推定犠牲者数が「3人〜5万人」とかの幅を持つようになれば、その時は「事件の閾値」を考える意味も出てくるかもしれない*1


南京事件も、また同じです。
id:shivashantiさんは、「否定派との議論において」必要である、と、お考えのようですが、歴史学者の統一見解として、南京事件は犠牲者数万以上の規模では存在していることがわかっているわけです。
いまさら、そこに「否定派」とかを持ち出して、対等な論争条件を求める必要がないわけです。

*1:その時も別に閾値とか決めずに、現在の推定の幅は、この通り。追加の証拠が出てくるまでは判断保留、で、良いと思いますけどね。