ハルヒ新作が面白いなぁ

というわけで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の小説とアニメの分析。
http://d.hatena.ne.jp/tatsu2/20090523/1243087165
こちら読んで面白かったので触発されて。
あと、こちらも(トラックバックありがとうございます)。
東浩紀終了のお知らせ - 一切余計


まぁ大変に今さら感があると思うが、年単位で更新が滞る日記なので気にしない。
色々周回遅れ、時代遅れな意見だったり、勉強不足による大勘違いなどがあるかもしれないが、そういう部分はフォローをいただけるとありがたい。

長門俺の嫁

さてさて、よく言われるのは「長門俺の嫁」であって、「ハルヒ俺の嫁」は少ない。
まぁネタコピペをもって長門ファンがハルヒファンより多いと断言できるわけではないが、「涼宮ハルヒの憂鬱」の中で、ハルヒは、嫌われやすい不利なポジションにいる。


涼宮ハルヒの憂鬱」の典型的なストーリーは、ハルヒの能力が発動した結果、世界が変化し、問題が生じるというものだ。能力の性質上、ハルヒ本人は問題を自覚できないので、ハルヒ以外のSOS団メンバーが一致協力して事件に当たることになる。


このことの問題点として、ハルヒは自分が他人に迷惑をかけていることに気づかない(気づけない)から当然、感謝やフォローもできないということ。彼女の責任ではないが、一方的に迷惑をかけるだけの女にみえてしまう。
また、ハルヒ以外のメンバーは、ハルヒを抜いて事件をクリアすることで、互いに結束を高めてゆくが、そこにハルヒは関わらない。
涼宮ハルヒの消失」や「笹の葉ラプソディ」で、事件を通じて、キョンは、長門やみくるのこれまで知らなかった一面、それぞれの信念や苦悩に触れてゆくわけだが、その思い出作りの重要な部分にハルヒ本人が絡んでいない。キョン長門やみくるの距離が縮まる一方で、ハルヒとの距離はあまり変わらないわけだ。


さらに、「涼宮ハルヒの憂鬱」は、キョンが一人称の語り部として存在している。
キョンは、ハルヒに対する恋愛感情をあまり認めていないわけだから、ハルヒキョンを意識する仕草をしていても、そういう風に解釈はしない。
「か、勘違いしないでよね!」と言われたら「いやしてないから」というのがキョンなわけだ*1


また意地っ張りなハルヒは、キョンの見えないところで、しおらしかったり意識したりしてるのだろうけれども、それらはキョンには見えないので、当然、語られることもない。


キョン視点というフィルターがかかる
ハルヒが仲間はずれな物語が多い


ハルヒが嫌われやすく「長門俺の嫁」になりやすい構造は、こんなものだろう。
逆に言うと、このへんをちょっと変えれば「すごく可愛いハルヒ」の二次創作が作れる。

キョン」の発明

アニメの第2話(事実上の第一話) 「涼宮ハルヒの憂鬱Ⅰ」の冒頭は、原作と同じように、キョンの語りから始まり、その内容は、一語一句ほぼ変わらない。


「原作を丁寧に扱う京アニ」と言われる所以だが、ちょっと待ってほしい。


小説原作を読んでいた時は、正直、キョンの顔とか覚えていなかった。というより意識していなかった。
一巻の挿絵にはキョンもいるが、ヒロイン陣のほうが数が多くあまり細かい表情はないし、クライマックスのキスシーンでは、表情は影になって消えている。
ここでのキョンの扱いは、読者をスムーズに感情移入させるための視点キャラであり、独自の個性はあまり必要ないわけだ。
いわばギャルゲエロゲの(今となってはかなり古い)テンプレである「長い前髪で目が見えない」系の主人公だ。本心を隠すために言い訳めいたどうでもいいことをグタグタ韜晦するのも、オタクが親近感を覚える定番だ。


そこまで断言せずとも、地の文でキョンが「俺はこういう顔形で、こういう体型で、今、こんな表情をしている〜」などと説明するはずもなく、読者は視点キャラキョンの中から外を見るのであって、キョン本人を見ることはない。できない。
小説に登場する最初の細かい視覚描写は、もちろん、ハルヒのものである。

長くて真っ直ぐな黒い髪にカチューシャつけて、クラス全員の視線を傲然と受け止める顔はこの上なく整った目鼻立ち、意志の強そうな大きくて黒い目を異常に長いまつげが縁取り、薄桃色の唇を固く引き結んだ女。

翻ってアニメのほうは、開始から1分30秒にわたり、キョンの日常描写が続いてゆく。

回想を表すモノトーン。桜吹雪。自転車。自転車に乗っているキョン。降りるキョン。階段を上り登校するキョン。歩くキョンの横顔。よどみなく、自分の過去の鬱屈を語り続けるキョン
どうでもよさそうに歩いてゆくキョン。どこかつまらなそうな、その横顔。坂を上る後ろ姿。


少しだけ、ほんんの少しだけうつむき加減のキョンは、上った坂で、ふと何かを求めるように、誰かを待つように振り返る。どうでもよさそうな顔に、一瞬だけ、憂いが宿る。


……何も来るはずもなく、再び肩を落として歩きだすキョン
かぶさるナレーション。

「宇宙人、未来人、超能力者? そんなのいるわけねぇ。でもちょっといてほしい……」
「みたいな、最大公約数的なことを考えるくらいには、俺も成長したの、さ」

自嘲を帯びつつも、素直な憧れが見える語り。それに気づいたのか、あわてて照れ隠しで達観して見せる。
登校して入学式。

「中学を卒業する頃には、俺はもう、そんなガキな夢を見ることからも卒業して、この世の普通さにもなれていた」

気を取り直した冷静な口調。けれど、さきほどの憂い顔と語りは印象に残っており、どこか取り繕っている印象を与える。そして、その取り繕いは、最終的にハルヒによって破壊されるわけだ。


一連の動きの丁寧な描写と、声優、杉田智和の本当に絶妙な語りが相まって、ここで視聴者はキョンというキャラクターを発見する。印象づけられる。


小説における一人称語り部視点のキョンとは違い、アニメにおいては、このように視聴者はキョンというキャラクターを外から観察する。キョンの語りのテキストは、その声と表情に裏切られ、裏付けられ、多面的な性格として作り上げられてゆく。


小説をアニメ化したら、そりゃ主人公の顔も出るし、しゃべるだろうというのは確かだが、ここにはもちろん明確な演出意図があるだろう*2


キョン視点というフィルターがかかる」問題に対して、キョンというキャラクターを、感情移入する主人公であると同時に、客体として印象づけることで、解決を図っているわけだ*3

作画とは何か

と、長くなった。
アニメのハルヒキョンは良い、ってのは、今さらすぎる話だろうが、少しだけ細かく書いてみた*4


俺の素直な感想は「あ、アニメのハルヒ、すげー可愛い」というものだった。


純化していうのなら、そのような印象を与えるために、上記のような手法が検討され、それにそって演出が組み立てられ、作画が行われる。
「可愛いハルヒ」という印象を与えるために「キョンの客体化」という目的が設定され、それによって、どのようなレイアウトのどんなカットが必要かが計算され、そのために、動きが、ある時は丁寧に、ある時は強調され、ある時は省略される。


個々の作画には、そうした無数の意図がある。無数の意図に対応する、無数の演出があり、その積み重ねが感動を生む。
オーケストラの全ての楽器を聞き分けられずとも、その全体を聞いて大きく心を揺さぶられるように、視聴者は、作画の演出意図のほとんどを、直接意識しないまま、影響を、感銘を受けるわけだ。


あるいは、また、ハルヒキョンというキャラクターを小説からアニメへ移し替えるには、並々ならぬ努力と創意工夫が存在している、とも言えるだろう*5

貧困な批評

驚くべきは、批評家の中にも、そうした豊かさに全く気づかない人間がいることだ。

したがって、作画がマズかろうが、動きが平板だろうが、そんなものはアニメを見るうえでまったく障害にならない。彼らは、アニメを見ているようで、実はアニメそのものは見ていない。漫画にしろアニメにしろゲームにしろ、彼らにとっては、脳内に萌の対象を作り出すために必要な情報を引き出す一種のデータベースでしかなくなっているようだ。
ゲームラボ2003年10月号『crypto-survival notes repure
東浩紀

本日記では三度目の引用になるが、本当に突っ込みどころが多い文章である*6


作画がマズくて動きが平板なハルヒは、京アニは、人気を得られただろうか?


そもそも「作画がいい」「動きがいい」という感想は、それらが総体として生み出す感動への賛辞であって、単に「絵がうまい」「細かく動きを割っている」という以上の意味があるだろう。


「アニメを見ているようでアニメそのものは見ていない」なんて器用なことはできるだろうか?
俺は音楽は素人で、鼻歌で歌おうとすると、主旋律やボーカルしかでてこないような人間だ。音楽を「記号的に」消費してる人間と言ってもいいかもしれない。
だけど、曲自体を聴いてる時は、そりゃ曲全体から印象を受ける。うまいドラムやベースで高揚するし、ドラムがリズム狂ってたら乗れない。


アニメだってそういうものだ。細かい工夫は言われないとわからないかもしれないが、「下手な作画を無視して記号だけ消費する」のは、常人にはできない。


記号。記号。
猫耳を記号と呼ぶのは勝手だ。
ただ、当たり前の話だが、同じ猫耳でも、素晴らしい猫耳とそうでもない猫耳がある。
前者に出会った時の感動や、それを成立させるための努力に思いを馳せずに、「ネコミミの消費」だけを語るほど貧しいことはない。

追記

コメント欄で、tomezouさんからご指摘いただいた。
東氏が、ポストモダン的な心性・社会性を分析するために、作品の受容のされ方を分析する時、それらは当然、個々の作品ではなくて、それらを成立させている背後の環境・流通・消費形式への分析に向かうわけである。


その意味では、東氏の批評が「ネコミミの消費だけを語る」ことになる点は正当化されるだろう。
前項の文章は、望月の勇み足であった。


それを踏まえて、東氏の姿勢に問題を感じる部分はあるが、それについては整理して、項目を変えようと思う。

*1:実際にはキョンはそこまで朴念仁ではなく、ハルヒへの自分の気持ち、ハルヒの自分への気持ちをそれなりに理解したわけで、口先だけで韜晦しているわけだ。語り手がツンデレと言ってもいいだろう。そこを深読みしてゆくのが面白いわけだが

*2:演出意図というのは、例えば監督個人が明確に明文化して周知するものもあれば、制作過程中に自然発生するようなものもあり、多くのものは、その中間だろうが、ここではそれらは区別しない。いや、ここで俺が書いたような初歩的なレベルの話を、現場が意識してないことはないと思いますが。

*3:このへんは、プレイヤーが能動的であり主人公がプレイヤーの延長で、結果マルチエンディングとなるノベルゲームを、視聴者は受動的で主人公が視聴者から独立して一つのエンディングを選び取るアニメに翻案する問題とも関わるだろう。「Kanon」、「Air」、「CLANNAD」の演出とも見比べてみたい

*4:ハルヒが仲間はずれな物語が多い」のほうも、第1期のエピソード選択やオリジナルエピソードである「サムデイ イン ザ レイン」の内容から分析できそうだが、今、一話から見返してるところなので、また今度。

*5:アニメばっか持ち上げてるが、もちろん小説には小説の、様々な手法演出創意工夫が存在している

*6:執念深いと思われる向きもあるかもしれないが、東浩紀氏が、この過去の発言をどう位置づけるかを俺は知りたい。こういう発言をそのまま放置しながら、アニメ批評を語り、山本寛氏と対談するのは、批評家として誠実とは言えないだろう。まぁ東氏が黒歴史にしたいのであれば掘り返すのも意地が悪いかもしれないが、東氏は相変わらず、ことあるごとに「オタクは記号だけで消費してる」的な物言いを繰り返すので、頭が痛い